『守教』

2017年12月10日

『守教』 (帚木 蓬生)
 
西日本新聞の書評は、私とあまり気が合いません。どうも波長が違うというのか……。しかし12月10日の書評の中には、引きこまれるものがありました。それがこの『守教』という上下にわたる小説の新刊。福岡は今村天主堂の近くに住んでいたという作者が、そこに不思議さを覚え、半世紀後に大きな作品として世に出すことになったのだそうです。
 
今村天主堂は実に美しい。私は外からしか見ませんでしたが、建築者・鉄川与助についても少し調べ、当地のキリシタンたちの歴史も垣間見たものでした。大刀洗は後に戦争のひとつの記念地となりますが、どこか陸の孤島のような地で、極端な迫害がなく過ごせた中で、育まれた信仰というものが何かしら平和とつながっているような気もします。
 
Amazonのカスタマーレビューに、こんなことが書かれてありました。「もしかしたら、知的エリートの僧侶の唱える経文より、はるか彼方の異国の地から来た異人の宣教師が通詞の助けを借りながら、拙い日本語で説明したイエズスの祈りの言葉の方に、何か素直に心に沁みこむものがあったのではないか、などと想像しています。」
 
もしかしたら、いまのキリスト教は、その僧侶の場所に移動してしまっていないか、どきりとさせられました。クリスマスはクリスト、つまりキリストのためのマス、つまりミサです。キリスト・イエスが生まれたこと、そしてそのなしたこと、それを思い巡らすのがクリスマスであるとすると、誰のために、いったい何を、祝うのか、伝えるのがよいのか、静まって考えてみたいと思いませんか。


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