力士は神
2017年12月8日
テレビのワイドショーは、九州場所の途中から、角界のことばかり。そこまで時間を使って報道するようなことだとは思えないのですが、どうでしょう。殆ど追いかけてなどいないのですが、どうやら一つの鍵は、日本の相撲道のようなものにあるように感じられます。横綱の「品格」という言葉もその現れなのでしょう。それとモンゴル力士との間には、ずれがあるのと違いますやろか。
ではその相撲道ないし品格とは何か。これを実は誰も説明してくれません。肝腎のキーワードについて定義をしないで報道とコメントを、さも既知のことのように重ねていく、という悪しき論議の習慣がそこに見られます。
しかし誰かが、「力士は神だ」というようなことを口走ったのを、偶々私は聞きました。なんだ偶像か、などと思うクリスチャンもいるかもしれませんが、私はそれを聞いたときに、合点がいきました。そう、力士は確かに神なのだ、と理解したのです。
もちろんそれは、日本語の神です。日本人にとり神は、自然のものだという捉え方もありますが、他方、何かしら特殊な能力をもった存在、人間の上(カミ)に立つべきものを指していることがあり、「マンガの神様」のように簡単に人を神と呼ぶし、ネットでも「神」は普通に降りてくるし、「神ってる」などという流行語も生まれました。
聖書の訳語で「神」としたのは最初からそうではなく、しばらくしてからのことだったそうですが、それがまずかったのではないか、と考える人は今もたくさんいます。元来の日本語の「神」とは性格が違いすぎる、と。しかし創造神なり絶対神なり、そもそも日本で考えづらかったものは日本語に求めるわけにはいかないことでしょう。
そうした日本人の「神」は、しばしば政治的に利用をすることはあっても、その神こそが主体であって人間を支配するという構図にはならなかったものと思われます。村の掟として村をまとめるために神の意志だの聖なる地だのは用いられましたが、むしろたいていは、神に供え物をすることで、神は操作できるかのように人が決め、人の願いを聞き届けるために上に置かれたものであったように見受けられます。人がこうしていれば神はこうするものだ、という取り決めの中で、宗教行為が規定されていたのです。
そしてしばしば、上に置くそのような存在は、どこか象徴的なもので、いわば人形のようなものとして掲げておくためのものでした。天皇がその好い例でありましょう。開戦の詔勅を発するのも、天皇自身の意思や判断ではどうしようもないことだったはずです。周りが決めてしまったことを天皇は権威づけるだけです。書類を見ずに印鑑を押すのと同じことですが、その印鑑は絶大な影響を及ぼします。エステル記にもそういうことが描かれていました。会社でも、最上のところに、何も仕事をしない存在を置くことがしばしばです。社長がそうであることもあるし、社長が働くなら会長か何かがあるのです。
これは世界的なことかもしれませんが、「王殺し」という話があります。一年間王としていい身分に人を置くが、一年後にその王は殺されることになっている、などと。王は特別な存在ではあるが、その王が永く支配してもらうのは困るわけで、あくまでも上に立つ王なるものは形だけ、そのもとに臣民が従う形をとって統率をとるのだ、というような事情でしょうか。
横綱というのは、もちろん相撲が神事であるという背景にも関係していることでしょうが、もはや人間ではない存在と見られるわけです。頭抜けた力をもつ者だけが特別にその地位に就くことができ、しかも降格がない。それに相応しくないあり方しかできなくなったら、死ぬしかない、いえ引退するしかないのです。横綱は明らかに神的なものと見られています。それは強い横綱が君臨するためではなく、神棚に飾り拝むような構図において、その相撲という世界の宗教的な構造の頂点に掲げるためのものなのでしょう。
横綱は「神」でなければならない。それを「品格」と呼んでいる。が、日本人はわざわざこのような分析をせず、自然な宗教観の中に生きているから、ふだんは意識しないけれども、「横綱の品格」などと言われると、説明できずとも、そういうものがあるんだとやたら日本人は頷き合うのです。しかし、モンゴルの人にはこの宗教的空間が染み渡っているわけではなく、強い者が強い間だけ選手でいるし、強い故に他を指導したり誇ったり、また勝負にこだわったりするのは当然のことです。しかし神である横綱は、時の運として負けても、それがいかにも神的に潔かったりするならば、構わないわけです。負け続けてもはや神的な力が見せられないのは困りますが、たとえば潔く自分はこのときには負けたのだと認める美学があって、品格があると称されることのほうをよしとする、そんなものがありはしないでしょうか。横綱は人の定めた神として振る舞わなければならないのですから、勝負に異議を申し立ててはいけないのです。そして、こうした「神」は、意見を言ってはならないのです。人の意見を「神」に載せているのですから。
人間が人間を支配するために祀り上げて掲げる人形的な「神」ではない、すべての人間を(語感は悪いが)奴隷としその上に絶対的に支配する神、ここが整理できていないと、聖書を読んでいても信仰がコースを外れる可能性があります。そしてその神が、むしろすべての人間の奴隷にまで降りてきて仕えた、そればかりか人間がなぶり殺しにしてしまったが、その代わりではないそのままに復活し、真実の支配をする将来を告げてその時を待てと命じ、それに相応しい行き方を続けるべきであることを伝え続ける、そんな信仰にクリスチャンは招かれています。その呼びかけに応え、招かれるためには、罪と赦しの経験が必要とされます。呼びかけられた者たちは、共に交わるエクレシアを形成し、神の国の市民として生きていくことになります。神の国はその意味で、確かにいまここにあるのです。