データ改竄
2017年11月30日
大企業の「データ改竄」が度々ニュースに挙がるようになりました。これだけ多いと、いまのうちに告白しておいたほうが、目立たずに済むぞ、と目論んだわけではないでしょうが、それにしても次から次へと、あちらも、こちらも。ある日は、社説でどーんとその問題を叩いているサイトのその上に速報が、「○○がデータ改竄を発表」と流れてさえいました。
家計簿をつけている家庭も少なくなったと言われています。ざっくりでもつけているところさえ少数派ではないでしょうか。以前家計簿で悩んでいたのは、日計と項目別の合計とが縦と横とでつながる右下の欄が、合わないという点でした。どこかにミスがあるわけです。しかし、わずかな数字の食い違いに悩んで時間を費やしても意味がないとし、まあこのくらい、と通り過ぎるのが普通ではなかったでしょうか。さすがに銀行では、これができないと、銀行員の知人は残業を恨めしく語っていましたが、普通の家庭ではこういうことが日常では。
会社にしても、どうしても原因の解明できない食い違いというのはありうると思われます。何もかもが清廉潔白にぴったり一致する会計を示す、ということのほうが難しいでしょう。いえ、金額にはそれがなくても、間違った書類を渡したり、記入漏れがあったり、それが皆無ということは期待できません。そのときにも、まあ仕方ないさ、で片付けておかないと、次の仕事に進めないと思われます。一時的に、データを、調べてないけどまあいいだろう、と済ますことは、本当に皆無かというと、分からないかと思います。不良品にしても、確率的にしか算出できないわけです。
ただ、組織的に、改竄が常態化していくことには問題があります。だからいま社会問題となっているとも言えます。以前、マンションのデータ改竄のために床が傾いているなど、修正が殆ど不可能な結果をもたらしたことが問題になったこともありました。自動車など、安全に関することについては、ごまかしてもらっては困ります。もちろん、資格のある人が検査をしたから安全が完全に保証されるというのも不思議な論理ですから、ユーザーも信頼すると共に、弁えておかなければならないことは言うまでもありません。
完全ですよ。そんなふうに言うことは、やはりできません。それなのに、「一点の曇りもない」などと、政治関係で言い放つさまを見ることがありました。世間が大いに疑惑の目で見ている問題についてでした。空々しい言葉です。私たちも、そのようなことを口に出していないか、省みる必要があります。実は自分の目が曇っている場合には、見ている対象が曇っていることが認識できません。赤色で記入した問題の答えが、赤色のシートを当てることで見えなくなるのと同じような理屈です。
見つからなければ改竄しても構わない。自分で自分を正しいものとしてしまう。あるいはまた、改竄したという意識すらなく、自分は正しいと確信して膨らんでいる。しかし神にはごまかしは利きません。生まれる前から私のすべてを知り、支配している存在があることを意識すると、ひとは慄きます。このとき、聖書を鏡として自分を映してみたら、自分が正しいという誤った認識わしていた自分の姿を知ることができる場合があります。また、聖書を鏡として見ると、自分で自分を否定しダメだと悲しんでいたことについて、聖書の向こうから、そうではないと呼びかけられることもあります。
赤ちゃんは、見る人の心を無防備にさせ、笑みを与える力をもっています。まして、救い主として生まれた方は、どれほどの平和をもたらすことでしょう。私たちは、クリスマスを迎えるにあたり、ごまかしの自分をいまひとたびさらけ出して、新たな歩みを始めることへと促されています。ただ、この救い主の誕生は、殺人を呼び、争いを招き、やがては憎まれ蔑まれ、自ら殺されるという道の始まりでもありました。この方に出会い、従うよう呼びかけられた者は、救い主の死と復活のたびに、また新たな歩みをスタートできるようにもに呼び出されています。そのための、小さな勇気が、今日与えられますように。