バプテスマ(洗礼)

2017年11月24日

初めて教会に足を踏み入れたとき。もう戻ることができない門を潜ったのだという思いを抱きました。変わらなきゃいけない、とか、これで変わった、とか、そんな気持ちにまではなりませんでしたが、何かしら、賽は投げられた、という心境に近いものがそこにあったのかもしれません。
 
洗礼を受けたときも、一種の、後戻りできないという感覚はありましたが、それよりも、晴れ晴れとした気がしていました。そして、メンバーになった、というような意識も芽生えていたように思います。
 
信じるということについては、それまでにも成り立っていたわけで、なにも水を経て、突然信仰が与えられたなどというわけではありません。その意味では、恐らく神の前にはもう立っていたことには違いありません。けれども、いうなればチームのレギュラーになったとでもいうような、ひとりしっかりと立つべきなのだという立場にいる自分を意識するのは、また何か違うような気がしたのです。
 
たとえバプテスマは受けたとしても、実のところ信仰など何も知らないというような場合もあります。バプテスマを受けたからメンバーとなり、教会の責任を背負うような立場に(なぜか)なってしまいながら、実のところ聖書も神の力も知らない、とんでもない人も、見てきました。いやいや、おまえ自身はどうなのだと問われるかもしれませんから、あまり非難するような言い方はしませんが、事実は事実ですからそう言うしかありません。
 
逆に、バプテスマを受ける前から、すばらしく神に愛され、それを感じ取るセンスを十二分に持ち合わせているというような人も、見たことがあります。たんに諸事情で、バプテスマの機会を得られなかったというだけのことでもあるようですが、とにかく、その人と神との関係です。私たちは、そんな人のバプテスマ式を見ることができるとき、まさに天で祝福のコンサートが繰り広げられていることを感じます。ぜひ、その時には天を見上げましょう。聞こえてきますよ、きっと、その賛美が。


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