いい夫婦の日

2017年11月22日

日々何か「○○の日」と付けられているそうですが、歴史的由来もあり、語呂合わせもあり、調べてみると楽しいものです。
 
今日11月22日は「いい夫婦の日」。何かしら、立ち止まって見つめる機会とするにはよいかもしれませんね。
 
とはいえ、「婦」の漢字はそれでよいのか、とか、結婚しない自由やしたくてもできない者はどうなのか、とか、様々な声がぶつかってきそうなテーマではあります。
 
夫婦とは言っても、昨今では同性婚が話題になることがよくあります。社会制度として生活を支える目的の捉え方もありますし、若い人の場合は学校の制服をどうするかという問題、公共のトイレがどうなるのかなど、当事者にとって苦痛になることを、そうでない多数派の人々がどう理解し助ける心をもつかという構図についても知る必要があるでしょう。信教の自由などの権利と無関係ではないと捉えたいものです。
 
しかも、この場合、キリスト教が聖書の理解によって、罪人だと決めつけてきた歴史があるともいえ、責任を覚えなければならないと私は感じています。心と体が一致しないという場合、アイデンティティの確立にも支障があると見られるなら、その苦しさは如何ばかりかと思います。染色体の問題のように、如何ともしがたい場合も中にはあるのでしょう。
 
「結婚」という定義で意見が食い違うのであれば、他の語でもよいし、社会的な権利について差を設けないようにするという方法も考えられることでしょう。キリストの花嫁としての教会という「結婚」にしても、解釈が多様なのですから、自分の見たところから捉えている信念がすべてだ、とするところからくる争いは避けられたらいいのに、と思います。
 
神のことばは、すべての人を生かすことができる。私はそう理解しています。もちろんそれに心を閉ざし、背を向けるという人の戸をこじあけるというあり方ではなく、むしろ否定的に、求める人がいてもその人は生かさない、というようなことがないものであると理解しています。ある牧師は、同性愛者であることをカミングアウトしました。その視点からこそできるはたらきを担っています。キリスト教が、新しい道をつなごうとしています。このルートにだったら、神との関係を結べる人が、またたくさんいるとすればすばらしいこと。神がすべての人を救っているかどうかは、人には判定できないけれども、すべての人に救いの道を設けていることを喜び、あとは神の領域として委ねておきたい。自分は自分で、そのいのちにいまここで生かされる者でありたいと日々願いながら。


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