牧師職と教会

2017年11月18日


献身者が減少しているという悩みが、キリスト教世界で聞かれます。信徒の減少や高齢化、そして教会学校の衰退など、聞こえてくるのは悲嘆的なものばかり。他方、高齢者のための福音ということを積極的に持ち出す知恵も与えられ、確かにそうなのだなあと思わされます。
 
牧師のなり手が少ない。このことからいくつかの視点を分かち合いたいと思います。
 
すでに無牧と呼ばれる教会が、兼務を含めると、日本全体の約13%を数えるという統計があります。牧師が不足しています。しかし、こういう言い方は語弊がありますが、不足すると、牧師になると言う人が引く手あまたとなり、質が下がるという事態が懸念されます。確かに、若い牧師、経験の浅い人は、失敗を重ねた上で成長していくものであり、信徒も育てていく必要があります。最初から名説教ができるわけでもないし、魂の配慮がうまくいくわけでもありません。しかし、知識不足や経験不足ということでは片づけられない、質的なものもあるかと思うのです。
 
もちろん、牧師というのはサタンに最も狙われるとも言われ、牧師だから信仰が確かだとか、いつも喜んでいるとか、そんなふうに見るのは禁物です。しかしえてして、そのように見なされているのも事実です。ただ、そういうことではなくて、そもそも最初から信仰という点で問題があり、とても聖書を「知って(つまり体験して)」いるのではない人、聖書も神も「分かっていない(自分と神との関係が感じられていない)」人が、神学校になんとか行けば、あるいは卒業すれば、牧師になってしまうという危険性があり、現にそうした事態を私が間近で見てきている、ということを申し上げているのです。
 
いわゆる戦後、「でもしか先生」という語がありました(私は後から知っただけ)。教師になりたい者はだれでも就職ができるほど採用枠が拡大したために、やることが見つからないから先生に「でも」なろうとか、他の仕事に就けず先生に「しか」なれないといった社会現象を指す言葉でした。もちろん、蔑称です。事情は拡大に伴うものではないのですが、現象として「でもしか牧師」になりかねない図式がないか、という懸念を私は言っているのです。
 
さて、牧師になるためには、神学校を卒業していなければなりません。……本当でしょうか。それは聖書のどこに書いてあるのでしょうか。聖書はすべて真実であり、聖書のみだ、と標榜するグループがありますが、そう主張するならば、神学校を卒業して何年間現場で働いて、などという規則を、聖書以上に必要とする根拠は何でしょうか。新約聖書には、監督などいろいろ呼ばれ得るでしょうが、指導者はこういう人物である必要がある、とは書かれていますが、神学校で何年間学ばなければならない、という記述はどこにもありません。いや、社会常識だよ、と言われるかもしれませんが、それよりも、ますます聖書から外に出た組織の決まりであるとます認めたほうが、まだ説得力があるかもしれません。
 
確かに、なんらかの学びは必要でしょうし、一定の知識を身につけたことの証しとしての学歴には、意味があります。どこの馬の骨か分からない人物を牧師として迎えることには、危険が伴うことでしょう。しかし、19世紀のイギリスで活躍し、説教者として並ぶ者はいないのではないかとさえ言われるスポルジョンは、神学校を出てはいませんでした。が、それは実際上例外なのです。いまでも、神学校卒業を牧師の条件にしていないグループもありますが、事実上そうした人を迎えることは皆無に近いのではないでしょうか。
 
神学校を出ているのだから、信頼がおける。この点の怪しさを、ひしひしと感じます。牧師が自分に冷たかったとか、説教が気に入らないとか、そういうことではないのです。語ることばに命がない。真実がない。さらに言えば、この説教者は神と出会った経験がない。そういうところをまざまざと見せつけられてきた中で、人をいかす神のことばを求めている私たちは、教会の説教ではないところで、いのちを受けてきたことがあります。もちろん、そうした指導者の共同体は、聖書とは違う原理で動くために、信仰という点でおかしくもなり、聖書が告げていることからどんどん離れて行ってしまうことがあります。それが少しずつ外れていくため、多くの人は気がつかないのです。ブレない神との関係にある人には、感じられてはいても。
 
日々の食事が、その人の体と健康を支えます。毎週の礼拝説教は、霊の食事です。いつもそんなものかと慣れていくと、それが当たり前のようになってしまいますが、実は栄養の足りていないものばかり食べさせられていると、気がついたときには健康を害して取り返しがつかないという悲劇もありえます。いのちを支える食事を受けていることは、信仰生活をする中では大変重要なことです。一人ひとりが励まされて、世へ遣わされていくどころではありません。食事をしているつもりが、死へと邁進させられているというのであっては困ります。説教という霊の食事のために、気を払う必要があることを思います。
 
もうひとつ。牧師がたくさん必要だということは、教会の数が多いということを意味しています。なにもメガチャーチがよいと推奨するわけではありませんが、あまりにも小さな教会が多すぎます。教会数が多ければ、それだけ牧師という立場の人が多く必要になるわけです。この教会数を減らすことにより、必要な牧師の数も減り、そうすることで、「でもしか」状態を回避できる可能性が残されているのではないでしょうか。
 
先日ある学びで、日本の教会では、礼拝人数がある人数を越えることを、本能的に(という表現が適切かどうか分かりませんが)忌避する傾向があるという指摘がありました。「家庭的な」という形容が、教会のアピールに出てくることがありますが、家庭と呼びうる範囲を越えてくる教会は、居心地が悪くなったり、意見が合わず分裂したりしがちだというのです。かくして、家庭的な教会が乱立することにより、必要な牧師数が膨れあがるということになります。
 
教会の礼拝人数がある程度多くなったとき、「家庭的」でない方法により組織を安定させる知恵が必要です。スモールグループという形態もひとつの方法でしょう。また、牧師が必要以上にそうしたグループに干渉せず、自主的な動きのできる自由を認めるという方法で、「教会は一つであらねば」という強迫観念から解放され、緩い結びつきの中で一つの教会・共同体であり続けることも可能ではないかと思われます。「ひとつになるのだ」という意識は、却って、ひとつになれない考え方の人々を圧殺したり、追い出したりすることにつながりかねないのです。
 
但し、アメリカでそうした方法があるからと言って、それをそのまま日本で適用することはどうでしょうか。思想風土や文化が違うという理由のほかに、宗教的背景があまりにも違う点を押さえておく必要があるでしょう。つまり、私の見立てでは、アメリカでリバイバルが起こるとか、伝道をするとかいう感覚は、日本では、仏教が復興するとか仏教を伝道するとかいう感覚に匹敵するわけです。生活の中にすでに馴染んでいる仏教思想を、信仰という形で生かしましょうというのですから、そもそも生活の中に基盤のない日本のキリスト教世界では、アメリカの方法を使うことは根底的に誤っている場合があるはずなのです。
 
私たちは当たり前だと思っていても、傍から見れば奇異なこともたくさんあります。『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』という、アメリカ・カナダから日本へ来て研究を続けているマーク・R・マリンズ教授による本は衝撃的でした。日本の教会の土着性が明らかにされていたのです。祖先崇拝の文化や習慣が教会でも何の違和感もなく行われていることの意味などが調べられていました。もちろん、それを批判している本ではありません。ただありのままに、日本の教会というものが、どういう背景や性格を有しているのか、を示していたのです。もちろん、それは欧米であろうが同様です。ケルトなりゲルマンなり、混交文化だと言われても仕方がない面もあります。聖母というのもそういうところからきているのかもしれません。いまや南米でもアジアでもアフリカでも、その地域なりのキリスト教が拡がっている、と捉えることも可能でしょう。
 
聖書は各国語に翻訳されて拡がりました。そもそも新約聖書自体、イエスや弟子たちが話していなかったであろうギリシア語という形で書かれたことに端を発していますし、七十人訳聖書のように、ユダヤ教自身にもそういう面がありました。翻訳することで、他文化の理解の中で福音が働きます。それは、元来の文化とはやはり異なってくる場面があることは避けられません。しかしまた、だからこそ世界宗教へと拡大していくことができたのだとも言えるでしょう。日本文化は、外からのものを包み込み、変容させていく得体の知れないものがあるなどとも言われ、芥川龍之介の切支丹ものの作品でもそれが告げられていましたが、しかし聖書というカノンがすべてのキリスト者にはあります。翻訳や研究の差異を考えても、また写本による原典ということで問題が多々あっても、一定のカノンはカノンです。私たち自身が生活してきただけのほんの僅かな時間の中での常識をすべてとせず、時に根本的なことに固執し(ラディカルに)、他方現代社会の考え方に合わせた速やかな反応をして(これまたラディカルのもう一つの意味)、牧師というものの存在と、教会と牧師の関係ということについて、問い直す時期が来ているのではないかと思われてなりません。もちろん、その背景には、信徒一人ひとりが、神とどう関係しているのか、というところから始めなければならない点については、言うまでもありません。
 
無責任な立場から、偉そうなことばかり申し上げました。福音の前進と拡がりのために、私なりの祈りとして掲げたつもりであります。


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