基本的人権は存在するか

2017年11月14日


基本的人権というものは恒久的に存在するのでしょうか。
 
当たり前のように、あると学んでいるし、日本その他の国においては、民主主義と共に、疑いようのない大前提のように言及されるだけですが、本当に、そうなのでしょうか。
 
近代に――フランス革命のころだと言われますが――、基本的人権という語が現れるまでは、それが認められていなかったと考えられてよいでしょう。だったら、それより過去においては、人には生まれ落ちた時から、あるいはその後の人生の過程の中で、いまのような人間扱いを受けなかった人々がいたことは確実です。
 
聖書の時代に「奴隷」と扱われていた人々がいます。「しもべ」とぼやかされている表現も基本的に皆「奴隷」です。私たちはこの言葉に、家畜のように扱われる姿を想像しますが、必ずしもそうではありません。主人の「所有物」という立場にあっただけのことであり、中には家計を切り盛りするなどその才を認められる人々もいました。エジプトのヨセフを見るとよく分かります。
 
つまり、私たちが思い描きがちな虐げの構図ではなく、穏やかな奴隷制があって、互いにとり平和な関係も成り立っていたということが想像されます。
 
他方、憲法でいま定められているからといって、守られているとか、守るよう意見が一致しているとか、言えるのかどうか、も疑う必要があるように思われます。なぜ過労死が問題になるのか。ブラック企業が問題になるのか。そう簡単に辞められないからです。平和裡に勤めていたとしても、家族を質に取られている意識のある人は少なくないのではないでしょうか。
 
人が人を支配する構造がある限り、どこかに奴隷と主人の関係は存在し、理念的な基本的人権がそう単純に成り立っているとは思えない事情があるように思われます。
 
人が、神なしで社会なり国家なりを築く限り、それは避けることができないではないでしょうか。人が、人の奴隷になるという関係がなくなればよいと思います。人は、神の奴隷であればよいわけです。パウロは全面的に、そう告げていると思うのです。ルターも、それがあるからこそ、人々に仕える自由が言えたのであろうと理解したいのです。
 
もちろん、自分は神に仕えている、と称しながら、実のところ自分の腹に仕えている、しかもそのことに気づかず無邪気に傲慢に振る舞う、そのように人間の性は蠢くものではあります。人の罪とは、それほどに厄介にまとわりついているものです。キリストはその罪を滅ぼす救いをもたらすのですが、事態は単純なものではないでしょう。自分と神との間の関係を、常に聖書の語りかけの中に見つめ直すことを、怠ることはできません。


沈黙の声にもどります       トップページにもどります