正典とは何か
2017年11月6日
「正典」とは何か。聖書の正典性とはどういうことか。私の中で答えは出ないのですが、ある問いかけから、いろいろ考えさせられています。
・ある時代の「教会」がそれを「正典」と認識していったことに思いを馳せます。マルキオンに端を発したかもしれない、新約聖書へと向かう書のまとめあげから、ラテン語に権威を置く聖書を中心に神学が構築されていった歴史がありました。いわゆる宗教改革の中でトリエント公会議がカトリックの立場で正典を決め、プロテスタント側とは意見が合致しませんでした。この辺りに触れていくとそれだけで話がいくらでも膨らんでいくことでしょう。時代を戻せば、新約聖書はすでに2世紀ごろからおよそ信頼できないものが弾かれてまとまりかけ、4世紀にはほぼ意見が一致していたようにも聞いています。つまり、プロテスタントがいかに「聖書のみ」と言ったところで、その「聖書」というあり方を決めた基礎は、今でいうカトリック「教会」であったことは否めません。もちろん、黙示録についてのように、意見の相違が激しいものもあり、複雑な事情があるとも聞いています。十戒が神により刻まれた、というような根拠を示す背景があるわけではなく、文書が人により編纂され選ばれていったという側面があるため、それを人為的なものと見るのか神意的なものと信ずるかの議論が生まれてくることは否めないことでしょう。
・聖書の「オリジナル」とは何か、ということのもつ意味とは何だろうかと悩みます。オリジナルの聖書を求めて熱心に研究がなされています。本当にご苦労の多い仕事だろうと思います。最初に書いたものが遺っているわけではありません。当然その「最初」はどうだったかという関心も尽きません。執筆・編集・写本という流れの中に確たる定義がないように思われるところで、「オリジナル」とは何を意味しているのかどうか、その定義がなされていないままに議論をしても、すれ違うばかりとなってしまうかもしれません。いえ、そもそも「オリジナル」なるものが存在したのかどうかさえ、分かりません。いまのような本の発行とは違うわけですから。
・とにかく、新約聖書には写本の種類がやたらと多いことも厄介です。もちろんヘブル語聖書にも写本による相違、またギリシア語訳との理解の違いなど問題はあるでしょう。しかしどちらかというと一点一画をより重んじたヘブル語聖書よりも、修正加筆を必ずしも禁忌としなかった新約聖書の方が、やはりその点甘い面があるのは否めず、膨大な相違が生まれています。写本者が修正を重ねもするでしょうし、勘違いや写し間違いもあるかもしれません。またヨハネ関係のもののように、別人が相当に随所に書き加えたものを以て文書としている疑いのあるものさえあるといいます。
・ではそのある意味で架空の「オリジナル」ですが、それを私たちはやはり求めるべきなのでしょうか。というのは、本であれば初版の誤植や問題点を、版を重ねて修正していくことになり、後の版ほど誤りがなくなり、改善されていった「決定版」となっていくことでありましょう。カントの第一批判のように、第一版と第二版とでは別の本ではないかと思われるほどの修正が施される場合もあります。しかし概して、後に出たほうが、筆者の最終決断として尊重されていくのが通例です。新約聖書の場合(実はヘブル語聖書もですが)は、他人が加筆し、オリジナルの思想を大きく変更するかのようにされたものもありますから、事はまた複雑になります。ただその場合、「正典」とされたのはしばしば変更後のものです。「正典」の意義を知るためにオリジナルを探るという探究はほんとうに尊いものですが、聖書から神のことばを聴こうとする者にとり、どういう判断を取ればよいのか、一概には言えなくなる可能性があります。私たちがもし全面的に信頼する神のことばとしての聖書があるとすれば、それはどの版となるのでしょうか。特に、「聖書のみ」であるとして、聖書を誤りなき神のことばとする場合、それはどの聖書であるのでしょうか。
・こうなると、現在「正典」とされている聖書について、一字一句がそのまま神のことば、と見なすのは、信仰的であるようですが、実のところどの写本かということになるし、権威ある底本もまた年々(は大袈裟か)改訂されており、研究者の目から見て必ずしも新しいものが優れているとは言えないとの評もありますから、一点一画と呼ぶほどに細かく規定しようとするとき、恰も(プラトン的な意味での)聖書の「イデア」をそう呼んでいるかのような構造が成り立っているようにも思われます。
・ルターが「聖書のみ」と言ったのは、人間的に、また時に恣意的な教皇の言葉が、聖書と並び、あるいは時にそれ以上に権威をもつことに対して、そうではないだろうという点を強調するためであったことを思うと、後の時代、私たちを含めて、「聖書のみ」というスローガンからイメージするものと、ルターの考えていたこととはずれがあるような気がします。まさに文字通りに「聖書のみ」しか信徒が相手にしないのであれば、使徒信条をはじめ様々な「信条」も、へたをすると主の祈りですら、怪しくなってしまいます。まして現代の「教会」組織が運営している規則も、必ずしも聖書通りではありませんし、逆に、聖書に掲げてある当時の文化や風俗に私たち現代人が全面的に従っているわけではありません。あらゆる律法や勧めを、私たちは現代風に理解しているとしか言いようがありません。現代の教会やキリスト者は、神のことばに従うと口にしながらも、根本的に問われれば、恣意的に選んだ原則に従っているということを否定することはできないように思われます。もちろん、それが神のみこころでありますように、との祈りを加えているのも確かでしょうけれども。
・「聖書を信じる」というのは、聖書に書かれてある出来事を信用する、というようなことでしょうか。信仰の思いからすると、人を殺す文字ではなく、霊によって生かされているというしかないのでしょうか。だとしても、目の前にあるこの聖書にどのような信頼を寄せることができるのかどうか、検討する必要がないわけではないと思われます。しかし先の文献の問題からして、その聖書の文字を一義的に決定することで信用性ができたり増したりするというようなことを目的にすることはできないわけです。聖書は契約書とも考えられますから、この場合いわば契約書に、文面の異なる様々なバージョンがある、という事態になります。一定の「正典」が契約書としてまとめられた過程に対しても疑問が入る余地があるかもしれないのに、さらにその文書自体言葉の違う多くの種類が存在しているわけです。イスラム教の聖典と異なり、各国語に訳すことで教えを世界に拡大していったキリスト教としては、翻訳という問題も含めて、気にせざるをえないことがたくさん転がっています。私たちは、何に基づいて、何を信用しているのでしょうか。
・こうして考えてくると、文献あるいは契約書としての「聖書」とはそもそも何であるのか、という定義の問題がまずそこにあることが分かります。結局のところ、「聖書」と呼ぶ対象が明確な形で提示できないことが、議論の発端でもあるわけです。「それはいろいろあってね」で済まされないような信仰ないし感情があるから、熱の入った議論が展開されるのでしょう。このために研究している方々へは本当に尊敬の思いを抱くしかありません。しかし一方、その契約書のまさに主たる契約者甲としての神とこそ、私たちは契約を交わしているわけです。契約書の文面に多少の揺らぎがあったとしても、その言葉尻で左右はされないぞ、と構える契約者甲への信頼というものが、文面の曖昧さに勝りあるとすれば、それはそれで契約が成立しているということになるわけです。私たちは領収証なしで売買契約を日ごろ実行しているわけですし、神の気前の良さをも重々感じて知っているのですから、こと文献の真実はとことんどうなっているのだ、というような視点をわずかに外すならば、契約相手の神と直に結びつくというあり方も可能ですし、実際、信仰生活をしている人々は、そのあたりのスタンスでいるのではないか、とも考えられます。難しいことは分からなくても、神さまを信じています、と口で告白するのが、結局キリスト者の姿であるのかもしれません。
・キリスト者は、誰と契約を交わしているのでしょうか。その「誰」を、知っているのでしょうか。その「誰」と出会い、そこに信頼を寄せているのだということが、いわゆる「信仰」の生き方にとり最も核心にあるべきことのように思われます。あるときには、もちろんその契約書の言葉が約束の鍵になります。しかし、その文面の解釈でその契約関係に疑いが差しはさまれかけたとしても、契約者甲に対して――1タラントンを不信の故に土の中に隠すようなことをしないで――信頼を寄せるということは、契約者乙としてキリスト者ができることでありましょうし、また事実そのようにしているように見受けられます。
・こうなると、「イエス・キリストこそ正典である」と言ってしまいたくもなります。要するにキリストがすべての規準、カノンである。それは信仰の極致でありましょう。が、そのイエス・キリストをどこから知ったのか。聖書を通じてではないのか。その聖書とは何であるのか。話はまた元に戻ってきます。文書の差異は大差ない、と言われても、泥の雀を飛ばしただの、女性は男になれば天国に入れると言っただの、そうしたイエス像を以て救い主と受け止めることは私たちにはできそうにありません。私たちは、イエスに出会い、イエスを受け容れ、あるいは従うというプロセスを通して初めて、「イエス・キリストが正典である」と声を発するものでしょう。数学理論であったら、私が受け容れまいが理解できまいが、構わずそこにある真理として存在し、私に影響を与えうるものでしょうが、それとは異なり、たとえ完全な聖書なる文書がそこに与えられようとも、そしてその内容をその通りですねと認めようとも、イエス・キリストと出会うことがなければ、つまりそれをこそ「信」と言いたいのですが、それなしでは、「命」を受けることはできないとされるわけです。そしてこのことがまた、信仰でもあると言わねばならないのかもしれません。聖書が、数学理論のように、万人に納得され適用されるようなテキストではないために、結局のところ、その人と神との関係の中に置かれた契約の書類であるとして、決定版を必要とするという性質のものでは、そもそもないのかもしれないという、卓袱台をひっくり返すようなところにまで、来てしまいました。
・もうひとつ、余談になりますが、気になる点がまだあります。それは、新約聖書が、ギリシア語で書かれているということです。つまり、新約聖書においては、正典が、すでに翻訳物である、ということが何を意味するのか、という問題点です。今で言えば日本語の史料が英語で記録されたということであり、豊臣秀吉の記録が英語でしか遺っていないとしたとき、私たちが桃山時代をどのように認識することができるか、またそれをどのようにオリジナルとして感じ取ることができるか、という場面を想像するような思考実験をしてみるとよいかもしれません。新約聖書という形で記録に残るイエスの言葉それ自体が、直接発された言語ではないとするとき、その正典をギリシア語にて精緻に調べ尽くすことが、何を再現することになるのか、問い直す余地があるものと思われます。私たちは、翻訳された形のものを重箱の隅を突くように調べ上げてはいますが、そのことが果たしてイエス・キリスト自体を探究したことになるのかどうか。もちろんそれは、そもそも弟子などがまとめた弟子たちの視点や理解に基づく叙述が、イエス・キリスト当人とどのように関わるのか、という議論とも関係するでしょう。ですから、目撃証言としての記録という捉え方も貴重な試みでありましょう。また、テキストの背後にある事柄をテキストから根拠づけられるのかどうかを疑う中から、新たな学的な追究や、信仰の道が与えられるようになるかもしれません。私たちが「正典」と呼ぶものに対して、何を求めているのか、何を期待することができるのか、それを、ここで挙げたように言語としての現れ方やテキストの意味などから問うことは、当然これまでも行われてきている訳ですが、改めて私たち一人ひとりが、自分はどこに立ってどちらを向いているのか、というところからさらに、問いかけていくものでありたいと私は思うのです。尤もその問いは、誰が誰に問うのか、ということに及ぶと、そのテキストの向こうにいる神にではないのか、などというように、厄介なループに陥ることになりかねませんけれども。
この問題については、なお私の中で必ずしもすっきりと説明できないところ、全く分かっていないところが多々あるのであって、これからいろいろな方の知恵を授かりながら、それでもまた、天を見上げて問いかけ続けていきたいと思う所存です。なにぶん視野の狭い私のような人間でありますため、広く深い見識をお持ちの知恵ある方々からの示唆を賜れば幸いです。