永遠の命
2017年10月23日
永遠の命という問題が、新約聖書になると俄然表に出てきます。
この思想がどのように生まれたのか、それはまた、メシア思想の成立と共に調べていくと面白いものでしょう。
が、ここでは学術的な調査をしようというのではありません。「私」(それは、あなたでもあり、それぞれの人が自己として神に向き合うときの主体のことです)が、この新約聖書のことばとどのように出会うか、そこから何を与えられるか、という点に専ら関心を集めることにします。
いまこの呟きと共に考えている「私」は、生きています。生物学的であろうが何であろうが、生きているからこそ、読んでいるし、考えています。「我あり」と捉えようが、死を意識して跳ね返った時間意識を持ちながらであろうが、とにかく、生きています。
その「私」が消える、ということは、さしあたり考えられません。考えても分かりません。そこで、時に臆病な気持ちになる時があります。とりあえず今日、死なないように生きていよう、と。
貯金がいくらかあるとします。とりあえず今日、食べる分をそこから買おう。この繰り返しで毎日はなんとか生きていけますが、やがてそれが底をつくことは必定です。それがないためには、稼いで貯金を殖やす必要があります。臆病に、タラントを増やす道を選べなかったしもべが叱責された話が思い起こされます。
死なないように生きるのではない。
死んでも生きるのだ。
「私」はそれを、いまだ実現できてはいません。当然そうなのだという前提でいることもできません。ただ、それを約束してくださった方がいます。聖書の中から、その声が呼びかけます。その声に呼び出されて、「私」は顔を見上げます。その声は、これを見よ、と傷つき殺されたイエスの姿を見せます。十字架という形で、なにもかも晒される形で、思いもからだも全部投げ渡した、と神がすべてを開いて見せた姿です。それは死の姿です。しかし同時に、生きる姿でもありました。これをなしたのだということばに信頼を寄せることができるかどうか、「私」は、死んでも生きるという命について、問いかけられています。
「さしあたり」ではないところに、永遠があります。それは「いま」ここから始まるものでもあるのです。
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネ 11:25)