礼拝説教と言葉

2017年10月23日


礼拝説教に大きなウェイトをかけたのも、宗教改革の意義のひとつであったかもしれません。神のことばを説き明かす。そこには、確かに権威が必要です。けれどもまた、トップダウンだけで、語る者のロボットに聴衆がなれ、ということは明らかに間違っています。
 
会衆(聴く人々をそう呼びます)は、語る者の背後に神を見ています。神がそこから語ること、教えることを期待しています。それで私などは昔からよく聞いていた祈りを、礼拝司会者としてはよく加えていました。「語る者を、良き通り管として用いてください」と。しかしまた、それは司会者も同じこと。霊の流れを乱さぬよう、できるだけ余計な言葉を控え、霊が力をもたらしてくれることを願うのです。霊という語が、風や息をも同時に表しうる語であることはよく知られていますが、まさにそこに風が吹くのです。いのちの息が吹きかかるのです。礼拝に携わる者は、この風を妨げるようなことを、肉(つまり神からのものでなく、人間の浅はかな知恵や自分の得になることばかり考えたりそれを目的をしたりする人間のあり方)の思いで行うことはしてはなりません。でも、人間はそれをしてしまいがちです。すべてなすことにおいて、祈りが必要だというのは、そういうわけでもあります。
 
さて、説教に限らず、新しいことを語る、あるいは説明する、というのは、言葉の意味を明確にする準備が必要です。そこに若い人がいれば、昔風の言葉ばかり並べるわけにはゆきませんし、同じことを伝えるにしても、言い換えなどの配慮が必要です。しかしよく問題になるのは、教会用語というものがある、ということです。慣れていくといつしか当たり前になっていながら、初めて礼拝に来た人が聞いたらさっぱり意味が分からない、あるいは誤解を生じる語があるわけです。まさに「異言」です。
 
厄介なのが、聖書から語るときに最も気を使うのは、その言葉が通常の意味と違って用いられる独特の語があるという場合です。今日、語らいの場で、「肉と霊」の対比による聖書の箇所が取り上げられました。説教の準備の一環としての語らいでありましたが、提言者の言い方だと、「肉体」のように聞こえました。そのような誤解は歴史上ありましたが、一様に否定されて今日まで聖書は理解されています。肉体と霊魂の二元論が聖書で説かれているわけではありません。そこでこの肉という言葉には、神からのものが与えられていない、あるいはそれを拒絶した上での、人間から発する考え方やその考えが描かれているということを、説教であれば、冒頭で明らかにしておく必要があると思われます。なんとなく分かっているだろう、という雰囲気で話を進めていくと、やがて聴く側は話が分からなくなるか、理解が分裂してしまいかねません。
 
哲学の歴史そのものを、用語の誤解から生じた論争の歴史であった、と評する人さえいたほどです。ソクラテス自身、この語の定義をねちねちとひねくりまわしてソフィストたちをやりこめたという対話を、プラトンが大量に書き残した事情があり、これが哲学のはじめということになっているのですから、確かにそういうものなのかもしれません。プロテスタント同士の間でも、同じ「聖餐」の一言の理解の食い違いから、血みどろの争いを重ねてきたという醜い歴史もあります。
 
ただ、その言葉の意味が明確にひとつに規定されない、というのも事実です。もし聖書に出て来る用語が、すべて一義に規定されてしまうようなことがあれば、確かに聖書の解釈も一つになってしまいかねません。でもそういうことは、ありえないし、あってはならないのです。福音書ですら4つあり、有限な人間が実に多くの立場や視点から、イエス・キリストという方を見つめていたというあり方を証拠立てていますから、一人ひとりの理解があり、それぞれの信仰があってもよいのだろうという気がします。神は一人ひとりと関係し、つながることができる方です。私たちは鵜飼いの鵜の一羽一羽であってもよいのです。それでもなお、同じ飼い主に従う仲間としてのつながりが、きっと許されているし、可能にされているのですから。
 
私たち一介の信徒には、いえ、たぶん人間であるからには誰にも、神の心のすべてを知ることはできません。もしそれを知っているなどという人がいたら、危険です。そのような人についていってはいけません。私たちはえてして、「〜ではない」という言明はしやすいのに対して、「〜である」と言うのには勇気が必要ですし、さらに言えば「〜でなければならない」と断定するのは、かなり危ない試みとなるでしょう。
 
誰も、神の救いから無条件で拒まれている人はいません。礼拝の説教は、いまその場にいない人をも含めて、神の福音を語る場でありたいものです。そのためには、会衆がその語りをどのように受け止めるか、というところにまで十分配慮をして、語る側が聴く者の身になって、言葉を選び、また定義したり説明したりしながら、語らなければなりません。主イエスは、あの場面ではきっと、たとえというものが、それに最も相応しいと思われたのかもしれません。いま私たちの世界では、語ることにこれだけの期待がなされています。牧会は別名魂の配慮ですが、説教そのものも、また魂の配慮であると言ってよいと、私は考えないではおれません。


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