言葉が出来事となる
2017年10月21日
何を言っているか分からない文章というのは、そもそも語の定義がなされていない場合が多く、一定の記号である語を持ち出しても、書き手と読み手とが別々の意味でそれを読み解くとき、互いの論理が食い違い始めるものです。聖書でも「愛」だの「罪」だの、いくら教会内部から叫んだとしても、別のものをイメージさせるばかりで、何も伝わらない、というのがありがちな事態です。
「言葉」もまた、人それぞれに違うことを考える語の代表で、その定義をそれぞれの思想家が重ねたり壊したりして、常に何かを言い続けてきた、というのが哲学の歴史であるのかもしれません。
礼拝での説教は、聖書を説き明かします。それは、信じている語り手自身の意味の言葉を、聴衆に届けようとする試みです。語は同じように響いていても、その同じ枠の中に、供給側の装丁した色を塗ってもらえるかどうか、それは語り手には未知の問題であります。
それなのに、自分の信ずるところを熱く語れば語るほど、聴衆からすれば別の世界であるその語りの内側に、入ることができず、入ろうという気をも起こさなくなるという出来事だけが遺ることになります。
聴衆と重なる語の意義を持ち出すこと。説教はそこから始まります。しかしまた、説教は神のことばの取り次ぎでもあります。上から与えられるものですから、語る者が主張したいことが先にあって、それに権威づけるための飾りとして神のことばを「利用」することは厳禁です。それは説教ではありません。ですから、私の信条を伝えたいと躍起になればなるほど、神のことばを自分が支配するようにもなるし、聴衆はますます引いていくということになります。
神の語るのを聴く。語り手は、それを待ちます。しかし、人間の側からノックすることは悪いことではありません。むしろ求めよ、ノックし続けよ、とのイエスのことばがあるほどですから、しもべは聴いております、お語りください、と神に向き合い求める姿勢は重要です。むしろ必須です。
自分の中から思想を紡ぐ必要はありません。自分の信仰をすら、説明しようとする必要もありません。却ってそれが邪魔となります。方向性を正反対にしてしまいかねません。自分から黒い正方形として見えていたもの、いくら掘ってみても灰色の長方形くらいにしか違って見えないでいたものが、忽然と差し込まれた光によって、いままで自分からは隠されており、思いもよらなかった赤い円が照らされて見える、というようになるのです。視野が拡がるという程度のものではありません。見えなかったものが見えてくる、見せて戴くようにされるのです。
こうして、語り手の経験の中で露わに現れた恵みとしての光の出来事を、なんとか言葉にして紡ぎ出そうとする、そこに説教が生まれます。しかし、語り手の受け取った体験だけでそれを恣に流すと、異言としてしか現象しません。聴衆はその体験を知りません。言葉というメディアによって、語り手の体験を聴衆は疑似体験するのですから、語の意義の共通項部分を十分把握した上で、語が文となり文章となるにつれ、語り手の体験した世界を垣間見るように、聴衆に響かせていくようにしたいものです。あるいはまた、聴衆の内にある世界の中に、語り手の見た世界と響き合う共鳴部分がある場合に、そこから破れが生じて神のことばの出来事がそこに成立するようになることを望みます。そうして説教として語られた人の言葉は、人の目には見えない、人の外からの力、換言すれば霊とも呼べる神ご自身によって、神のなす業、すなわちことばと存在が一致するというあり方を根拠として、事実、すなわち出来事となってゆくのです。
壇上の説教という形式に、それは限定されてしまうものではないと思われます。教会堂という場所である必要もありません。ただ、呼び出された者たちの集うところ、あるいはそうした同胞たちの祈りの支えるところで、そこにいると約束するイエスが真中に立つ場において、語り手ですら気づかないような霊の自由な働きがもたらされ、キリストの弟子たちは、楽しい語らいを行い、神の業が、イエスということばと、語ることばとを窓口として、ことばと存在とが一致する真理として、すなわち「こと」ばと「こと」がらとが常にすでに一致する神のことばであり真理である出来事として、隠れたところから顕れてくることになるのです。これに気づく者、これによりいのちを与えられた者は、このことの命懸けの証人として、神を称えます。これが礼拝です。こうして、神のことばは出来事となり、但しそれは人が自らの罪を知りそれを赦すイエスの死と復活を通してであるという道を通してのみ、救いを与えられるようになります。人の言葉は、祈りと賛美となって、人の世界の騙りとは無縁の語りとなります。それによって、喜びの満ちる光の中を歩む巡礼の民と変えられるのです。永遠の命を携えながら。