人間はただの動物ではない
2017年10月13日
人間もひとつの動物に過ぎない。自然の中でなにも特別な位置にいるわけではない。東洋思想はそのような観点に立つ。自然なるものを人間と対置して対象化し、人間が自然を管理し操作するところから、存在の破壊が起こされていく。そのための根拠となったのが、自然を支配する役割を神の命令として正当化した、キリスト教にあるのだ。一人ひとりが大切であって、他の動物などとは違うのだ、などというのは思い上がりも甚だしい。
昔私は、そんな勘違いをしていました。自分が何者かであるかのように、偉そうに高みに立って、自分を神としていることにさえ気づかないで、嘯いていました。もちろんこれは、人間が特別に偉いのだ、と言いたいということではありません。ある意味で、動物と同じなのだ、と言明すること自体が、動物と違うことを前提としているが故に、思い上がっていることの証拠でもある、という複雑な図式を内包しているとも考えるためですが、ここではそうした議論をするのが目的ではありません。
動物。動物にとり、成体になるということは、実に難しいものです。食物連鎖の中で、動物は、生産者たる植物の上で消費者という立場に置かれますが、その中にも、草食の第一次消費者、小型肉食の第二次消費者、そして大型肉食の大惨事消費者というようにピラミッドの上位に向けて位置していることになります。ピラミッドの下部にあるほど、産卵などの子の数が多くなり、成体になる割合は低くなります。魚などは億単位で産むものもあります。しかし親になるのはそのうちの、一、二に過ぎません。子孫を残すという大きな目的のプロジェクトに与れる動物は、果てしない幸運の下に選ばれた存在となります。このような動物一般に対して、神は動物を大切に扱い守られている、と告げることは難しいものでしょう。
人間ももしかすると、成人する割合は高くはなかったかもしれないし、現代でも自然環境や政治的環境により、厳しい状況に置かれている人々がいます。が、他の動物から比較した一般論としては、割合は高いといえるでしょう。ヒトは、生まれた時から、より大切に扱われていると見なすことが可能だろうと思うのです。
そして、神と向き合い、その声を聞く可能性を秘めている点からしても、人間はどこか特別な存在であることに違いはありません。それは、威張るためではありません。尊大さを抱くためではありません。「ノブレス・オブリージュ」の捉え方からすると、責任を伴うような、選ばれ方だといえます。大切に扱われているという自覚から、他者を大切に扱うように信頼されているという意味です。この他者というのは、いわゆる自然界もそうですし、同じ人間同士ということも当然指しています。エリート意識を、適切に用いる必要があります。
人間はただの動物ではない、その自覚から初めて「愛」が意識されることでしょう。悪や自己中心を、はては自己目的化すら、正当化するために、人間自身を規定すべきではありません。そのような人間自身の認識――それは完全というわけにはいかないものですが――のためにも、聖書という鏡はきわめて有効です。人間の罪の歴史の書として、そこに読者が自分の姿を見るならば、自分がまさにそこに出てくるどうしようもない存在であると知るならば、そこからなお大切に扱われていること、大切に扱う主体はどんな方であるのかということへと心が向かい、その方と出会う道が現れるのではないかと期待します。
すでにクリスチャンとしての生活を送っている人も、あるいは教会役員や特別な立場にあると自負している人だからこそ、つねに原点に立とうとする意識をもつ必要がありましょう。人間はおぞましいほどに、どこまでも、自分を正しいとしてしまう傾向性をもっているのですから。