100分de名著「全体主義の起原」
2017年9月23日
ハンナ・アーレントの「全体主義の起原」が、Eテレの100分de名著でこの2017年9月に扱われていることは、先にお伝え致しました。いよいよ25日の放送が最終回となりました。放送も今回はとくにお遊びの要素がなく、締まった番組となっていて、事の重大さをひしひしと感じます。
最終回は、有名なアーレントのアイヒマン裁判についての話です。詳しくは再放送などの放送を、そしてまたぜひテキストをご覧ください。淡々とした叙述の内に、私は激しい叫びを感じないではいられないのです。それは、私の叫びでもあります。人間が、これは善意だと自負していることがいかに危険を伴っているか。人間が権威あるものに対して忠誠を誓いそれに従うということが、いかに残酷なことをしても何も感じなくなるものか。そして人間が、正義という名を美しいと思うとき、ないしこれは欲望的なものでもありますが、自分が正義でいたいがために、どれほどの暴力を為してしまうのか。しかも、そのことにさえ気づいていないことか。
私が常々経験している――それは、それを受けているという意味と、それをやってしまっているという両面あるという意味です――それらのことが、このテキストの中で、明確に提示されています。私はその慧眼に賛同します。というより、もしご丁寧に私の呟きをご覧くださった方ならばお気づきでしょうが、これまで私が力をこめて訴えていたことが、このアーレントについてのテキストの内容と、共鳴しているという事実があります。時に悲観的にも見えるこの呟きが、このテキストの文章が懸命に警告していることと同じ色のものであるということに、ご理解戴ける方がいらっしゃると思っています。
ひとは、誰かを悪だと指摘することで、自分を正しい者にしたくてたまらない存在です。そのひとは、極めて善意を示し、善行をなし、身を粉にして奉仕します。神に忠実に働き、正しい者でありたいと願っています。しかし、それが、暴力に直結するのです。イエスが闘ったファリサイ派は、実にすばらしい、そういう人々だったのです。彼らは、自分たちが暴力を冒しているということに、気づいていませんでした。そこには愛がなかったのです。愛がなければ無意味だとパウロがしみじみ告げたとおりです。しかしファリサイ派は、自分たちは愛を行っている、とかたく信じて疑っていなかったことに、私たちは気づかなければなりません。私もあなたも、いつどの瞬間にも、ファリサイ派になりうることを弁えていなければなりません。イエスは、いまの私(たち)をご覧になったとき、どんなことばを告げることでしょう。
「あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」のことばが、私を呼び、召したことばです。人間の中に、決定的にないことを、イエスは指摘したのだと私は見ています。アーレントがせっかくここまで明らかにしてくれた人間の恐ろしさの本質を、アイヒマンは自分のことだと素直に認めることのできるキリスト者ならば、痛感し、自ら気づき、人々にも気づくように叫び続けることが、できるだろうと期待します。