自由のもつ危険な裏面
2017年9月13日
「人間は自由の刑に処せられている(呪われている)」――サルトルの言葉だそうですが、なにもサルトルのみならず、多くの思索者がそうした観点をもっていたと言えるでしょう。キェルケゴールだったら「不安は自由の目眩である」というような言い方をしています。ニーチェだったらどうなのでしょう。自由であることに憧れて、キリスト教の呪縛を解いて明るい世界を願いつつ、結局闇の中に沈んでいったと言えるのでしょうか。
自由は、プラトンの感覚からすれば、人間社会を破壊するものでもありました。自由の酒に酔うと、わずかな不自由にも不満をもつようになる、という、人間の性の一面をも言い当てています。結局、反対に隷属状態への向かっていくことになりかねないと危惧いるのです。
フロムの『自由からの逃走』は、タイトルやおよその触書には接していても、実のところ読んだことのない本でした。実際、この本は入手しづらい本の一つでもありました。驚くべきは、これがナチス政権の全盛期に発刊されたということです。ナチズムについて、戦後批判するのは、ある意味で簡単です。それを、ドイツ国民が一気になだれこんでいくありさまを、いわば渦中にありながら心理的・哲学的に分析しているというのは、なかなかできることではないでしょう。また、改めて綴ろうと思いますが、この9月にテレビで解説されているアーレントの「全体主義の起原」では、誰もがそのようになりうるのだということが鋭く指摘されています。
人間にとり、自由であるということは、恐ろしい方向に流れていく原因となりうるという指摘は、いまの私たちにも同様に成り立つ警告であると自覚しているでしょうか。自由という概念の理解と適用によっては、自分とその仲間でない人々に対して、極めて不自由であることを強いることに走りがちだということを、弁えている必要があるということです。つまり、私が自由であると感じているとき、実はその私が、誰かを不自由で縛っている可能性があるというわけです。あるいは、その誰かには、十分な自由を与えているつもりでいるとでも言うべきでしょうか。
立場が上の者が相手に「自由に選んでいいよ」とい口にするとき、ほんとうに自由の機会を与えていると言えるでしょうか。与えていると思い込んでいるのは、その上の立場の者です。この簡単な事実にさえ気づこうともせず、自由は保証されているのだ、とこの力をもつ側の人は自負します。こうして、自由という看板のもとに、プラトンが懸念した独裁の社会へとつながつていくことになります。
他方また、自由であることは選択ができるという希望をもつとともに、自分の立場を定められない不安定さを潜在的に抱く状態にも陥ります。「自分探し」という、ちょっと聞くと夢のあるような響きの言葉が、どれほどの不安な気持ちに包まれている故の言葉であるのか、私たちは知っているでしょうか。自由だ。何をしてもよい。だが、何をしてよいか分からない。その不安。自由の刑をひしひしと感じる若者たち。それは、かつての私の姿でもありました。
2017年10月、いよいよ、ルターの宗教改革の始まりの出来事から500年目を迎えます。プロテスタントとカトリックなどという対立事項でこれを捉えるのはもったいないことです。結局当時でさえ、宗教的動機というよりも、政治的な理由により争いが激化し、国や地方に宗教的色彩が塗られていったことを考えると、教義だけを取り出して議論することは、人間社会の動きに対して適切な構え方とはなりません。ルターの有名な言葉に、キリスト者の自由という考え方があります。それは「真理はあなたがたを自由にする」というイエスのことばの解釈でもありました。
自分が自由であると思い込んでいながら、実のところ不自由や不安で身動きがとれなくなっている、ということは不幸です。サタンは、ひとがそういうことに気づかないようにさせるのが巧みです。自分の主人はほんとうに神でしょうか。クリスチャンは皆、そのように口にするのです。しかし、自分の腹に仕えていたり、サタンに仕えていたりしかねない、そんな狼に囲まれた羊である私たちは、誰の声を聴き、従うのか、常に油を絶やさず祈り続けていく必要があるのです。