田川建三訳著・新約聖書 訳と註 第七巻 ヨハネの黙示録

2017年9月9日


田川訳註の新約聖書が、ついに完結しました。多くのファンないしアンチ(?)が待ち望んでいたことでしょう。訳者のコンディションの悪さも伝えられていたために、果たして出版されるのかどうか懸念される向きもあったかと思いますが、こうして発刊されたことで、新約聖書の研究のために大いに貢献することと思われます。
 
というのは、これほどの注釈を入れてくれる本に私たちが出会うことはめったになく、ギリシア語と諸文献への精密な検討を紹介してくれるということも、まことにありがたい仕事であると言えるからです。
 
もちろん、通例と異なる著者独自の視点に基づく(からこそ学問的意義がありますが)ことや、あまりに他の訳や研究者に毒舌めいた批判や皮肉をぶつけることを、快く思わない人もいるわけです。しかし失礼な言い方ですが、傍から見るなら、このようなけんか腰な姿勢は面白いわけで、すっかり研究書ということを忘れて、読み物として楽しんでしまうほどです。その解釈や見解については、その後また批判する研究者もいるわけで、それが学問の発展のためにはよい効果となっていくことを期待しています。
 
神を信じないクリスチャンとの自称をどう受け止めるかは、またそれぞれの読者が考えればよいのですが、私は個人的に、たいへんありがたい研究だと喜んでいます。今回の最終巻では黙示録へ、あらんかぎりの力を振り絞り大著となったわけですが、そこに、明確に黙示録の2人の書き手を主張するという説を以て臨んできたということになります。
 
私個人は、聖書をいのちの書としか見ていませんし、イエスと出会う場だと体験しています。しかしだからと言って、聖書というひとつの本を偶像のように見立てたり、それを信奉する自分の思いが客観的に正しいのだというような形に言い張るつもりもありません。極端に言うと、聖書といま呼ばれているものがどんな形で否定されようとも、私がイエスと出会ったという事実と、そこからの神の導きとしてくださった数々の恵みは私にとっては否定することができない真実であるわけです。ですからむしろ、こうした研究は、聖書の奥深さと、それでも把握し尽くせない神の真実とを、ますますもたらしてくれるものと受け止める次第です。
 
しばらく楽しめそうです。もちろん、こうした本はまず「あとがき」から読むべきです。すると、著者自身が、どこから読み始めてくれと注文してありました。早速、そのとおりの順序で読み始めました。以前はこのシリーズからかなり濃厚なノートをとっていたのですが、今回は読書という形で気長に楽しませて戴こうと考えています。これでこの新約聖書シリーズをすべて読むことができます。十年の長きにわたりのお仕事、お疲れさまでした。たくさん勉強させて戴きました。

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