四面楚歌(しめんそか)とは

2017年9月7日


敵に囲まれて孤立し、助けを求められないことのたとえ。周りに味方がなく、周囲が反対者ばかりの状況をもいい、孤立無援ともいう。中国、楚(そ)の項羽(こうう)が、漢の高祖に敗れて垓下(がいか)でその軍に包囲されていたとき、四方を取り囲む漢の軍中で盛んに楚の歌を歌うのを聞いて、「漢皆已(すで)に楚を得たるか、これ何ぞ楚の人の多きや」といって、敵の軍中に楚人の多いのを嘆じた、と伝える『史記』「項羽本紀」の故事による。しかしこれは、高祖の仕組んだ心理的な計略であった。[田所義行](小学館 日本大百科全書・ニッポニカ)
 
敵の国の歌が聞こえてきても、囲まれた側は恐怖のあまりまいったことでしょう。けれども故事は、見方の歌が聞こえてきたといいます。これは、別の意味で心理的にまいったと思われます。たんに敵が周りにいるということだけではなく、味方が、同胞が、敵になっていると感じたのです。
 
イスラエルの詩の中に、この心理が時々見受けられます。おとなしく支配国に従っていれば気楽じゃないかと、イスラエルの信実と復興を心に抱く詩人に対して、かつての仲間が責める。おまえの神はどこにいるのか、とせせら笑う。これは厳しく追い詰められるものだったことでしょう。そのとき詩人は、天に突き抜けた道を見上げます。両手を挙げて、わが主よと叫びます。
 
礼拝の会堂で、賛美をささげます。周囲にいるのは仲間であり、共に呼び集められた人々です。けれども、その中にいて、孤独を味わったことがあります。結果的に、いうなれば敵に寝返っていた者が、同じ歌を歌っていたことになります。もちろん、賛美の歌を聞いて、四面楚歌を覚えるというものではありませんでした。が、後で知ったことが、そういう構造であったという経験があるのです。
 
けれども、人を見るために教会堂に行くのではありません。主を見上げ、主に求め、あるいは委ねる思いが中心にないと、意味がないのです。その上で、与えられた交わりを喜ぶ。互いに仕える。仕えることだけで、神は嘉してくださることでしょう。そこにある楚の歌は、できるならほんとうに心ひとつに溶け合った賛美でありたいものです。そして、そう感じられる主日礼拝に出席できているということは、たいへんな幸いを与えられているものだと感謝します。
 
ただ、地上ではそうあるべしと決めつけることはできません。やがての天の大宴会においては、間違いなくそうなのですが、地上の旅における集いは、完全なものではありません。そのことを弁えたうえで、クリスチャンは信頼を失わず、今週も来週も、また共に主を称えるのです。

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