とどまりなさい

2017年9月5日


わたしに、とどまりなさい。
 
とどまる。たしかに一方では「信じなさい」とイエスは言うが、「とどまりなさい」が気になります。信じることととどまることとは、かなり違うように思われるからです。
 
信じて教会に来る。教会員になる。ああ、これで安心だ。自分は晴れてクリスチャン。たしかに、そういう安堵感をもつことはあるでしょう。そして、教会を自分の居場所として、教会生活が始まります。ところが、やがて、またもとの自分の素養がむくむくと頭をもたげてくる、ということがあるものです。怖いのは、それがいつの間にかすりかわっていって、自分では、新しいクリスチャン生活だと確信しておりながら、その心を操っているのは元の自分の性質、ということになってしまっている場合があるのです。
 
今度は厄介です。教会の論理、聖書を根拠に語ることができます。それでいて、それらを動かしているのは、いわば肉の性質であるのです。そのからくりに、自分でも気づきません。気づくならば、修正が利くのですが、気づかないから、自分が正しいという基準になって揺れ動きません。具合の悪いことに、その揺れ動かぬことが、信仰が強い、と勘違いさえするので、手に負えません。
 
そういう人々に悩まされた弟子たちと、弟子たちのスピリットを継ぐ人々が綴ったのが、パウロ以降の書簡だと理解することができると思います。また、黙示録もそう読むことは許されるか、と。すでに福音書においても、そのような例がたくさん挙げられています。注意深く読むと、新約聖書はそれらが満載であることに気づきます。そして、聖書が執筆された以後の時代においても、その繰り返しであったことは、歴史が証明しています。
 
その歴史は、いまもなお続いています。疑心暗鬼になれという訳ではありませんが、警戒しなさいという戒めはたしかに有効です。失礼ですが、牧師などという役職だから信用できる、というルールもありません。むしろサタンは、指導者を狙ってきます。それがいちばん、多くの人を惑わすのに有効だからです。教会員は牧師のために祈らなければなりません。同時に、牧師や神学者もまたひとりの人間であり、全面的に信頼する存在ではない、という原則を掲げて見つめていなければならないということも、つねに弁えておかなければならないということです。これまでの私の歩みの中でも、そのことは実例を挙げて証拠立てることができます。もちろん、だから私自身が正しい、などと言って得意がるつもりは毛頭ありません。自分はただ神の憐れみの中で生かされているという前提で息をすることから始めるばかりです。そして、真に神に生かされ、立たされている牧師も少なからずいるということで、そうした牧師と出会えたら、大いなる恵みであると喜ぶべきでありましょう。
 
聖書の原則のひとつに、神がまず私たちを愛した、という方向性があります。
 
ともかく、とどまりなさい、この言葉がリフレインされて響いてくる祈りでありたい。

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