祈るのです

2017年9月3日


Ask not what your country can do for you; ask what you can do for your country.
 
国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。
 
有名な、ジョン・F・ケネディ大統領の言葉です。政治的な意味や影響についてはさておき、私たち大衆的人間が、いつも上に立つ者に何かをしてもらおうと依存している心理に気づかされ、はっとさせられます。
 
「国」を「教会」や「牧師」という言葉に置き換えるだけで、クリスチャンは、これまたドキリとさせられることでしょう。
 
だから「あれこれの奉仕をしなきゃ」と言いたいのではありません。もちろん、できる活動はしたらいいし、するべきかもしれません。けれども、いざ行動を起こさなければならない、という話にもっていくつもりはないのです。
 
祈るのです。教会組織が間違った方向に操舵されていかないように、牧師を狙うサタンの攻撃から逃れられるように、神との関係が、指導者や共同体において適切であるように、祈るのです。日々、そのために祈らなければなりません。
 
放っておいても、牧師はすばらしい神の人なのだから、自分を世話してくれる、そんな思い込みを私たちは抱きがちです。たしかに、それは魂の配慮をするべく立てられた人です。けれども、全能ではありませんし、神といつもつながっているとは限りません。牧師のために信徒ができること、もちろん、信徒が互いに、という意味もこめて言いますが、それは祈ることです。神の力を願うことです。神がその人と神との間を愛の絆で結ばれていることを切に求めることが必要なのです。
 
ひとつだけ、この「国」を置き換えるに相応しくない名があります。「神」や「キリスト」をその代わりにすることだけは、できません。人間を超えるお方については、自分が神のために何かを成す、などという発想は捨てた方が賢明です。この罠に陥ると、神から離れていくことになることはほぼ必定だからです。

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