教師タイプ・サービス業タイプ
2017年8月30日
進学塾の仕事をしていると、自分の中に、2つの種類の姿勢が具わっていることに気づくことがあります。
進学塾では「勉強」を教えます。内容は教育です。しかし他方、顧客を獲得しつなぎとめるためのサービス業でもあります。教育業とサービス業、このどちらも兼ね備える形で運営されていきます。もしどちらのウェイトが大きいですか、と問われれば、後者でしょう。「お客様」のニーズに応えることが優先されなければなりません。教育方針を掲げるにしても、それに賛同してくださるお客様を待つよりほかありません。
学校は教育を司ります。学校もサービスだという捉え方もあるでしょう。とくに私立経営だと、サービス精神をもたなければ成り立たないという事情があることも分かります。しかし、塾と学校はやはり違います。私立学校が気に入らず辞めることには勇気が必要ですが、塾を辞めるのは簡単です。つまり、塾の顧客へはサービスが拙いと、たちまち顧客が減るわけです。当然教育的な指導をモットーとはしますが、受験合格や成績向上という一定の目的がはっきりしています。塾側の方針はそのためにこそあるという前提がありますから、可能なかぎり生徒一人ひとりの事情に合わせて配慮しようとする思いが働きます。外部の方が時々イメージなさるような、画一的なやり方をしているわけではありません。たいていの場合は、柔軟に対応しています。宿題ができない事情や家庭、また部活の事情などを一人ひとり鑑みます。むしろそのあたり、一般学校よりもずいぶんと融通を利かせているのではないでしょうか。
サービスは、自分を偉くはしません。相手の意向を大切にします。サービスという語が、奉仕や礼拝を表すことは肯けます。相手の利益を考えるという姿勢がそこにあると思います。まさに愛の一側面です。
ここからが本題です。教会は、「教える」という文字を使います。これは日本語で結果的にまずかった、という感想をもつ人がいます。教えを垂れるというのは、教育のイメージです。しかしもちろん、新約聖書にあるその原語には、そのような意味はありません。呼び出された者・集められた者ではあっても、教える場所の感覚は感じられません。しかし、現に見る教会の中には、この「教える」使命に燃えているところがしばしば目につきます。そればかりか、学校の悪い側面のイメージを前面に押し出しているような場合さえあります。
とくに日本の教会だと、牧師や役員の中に、教育関係者が多くなる傾向があります。そういう人が信頼されるし、そういう役職に、いわば向いているからです。「先生、先生」と呼ばれると人間はだめになっていく、という話もありますが、確かに福音書のイエスは、そのようなことにも触れていました。
先生は教育業ではあっても、サービス業ではありません。しばしばそれは殿様商売というか、黙っていても生徒が集まってきて、よく担任教師が陥るように、一国一城の主のように振る舞うことができ、自分の言うことに従う生徒たちにしだいに圧政を施すようになる罠がそこにあります。世間を賑わす報道のとおりです。また、先生が多少のミスをしても、これくらいちょっとしたことだとしか意識せず、すまんすまんで終わらせますが、生徒のミスはそれを教育的指導と称して厳しく追及します。すべての教師がそうだとは申しませんが、そういう傾向にあることは否めません。
サービス業は、それと反対です。客の側に問題があっても、店側がまず謝ります。まずは客が正しいという前提からトラブルに対します。威張る店だという姿勢を見せると、店の運命が変わるからです。しかし教育する者は、それが教育だという権威をもっていますから、まず先生のほうが正しい、から始まります。そしてこれがまた、当人にはなかなか自覚できません。権威をもつ方は、良かれと思ってやっていますから、相手のほうに問題がある、という前提から離れることがなかなかできないのです。
キリスト教会は、全くのサービス業と見なすことはできないでしょう。店ではないのですから。けれども、福音を伝えるという役割がなくなることはありませんし、キリストのように「仕える」ことが、教会全体としての、あるいは遣わされる個々人としての使命であるとすれば、まさに神へのサービス(礼拝)を献げ、世にサービス(奉仕)を提供していくことは、重要な姿勢であるとはお思いになりませんか。
ただそれは、イベントを開いて人々に寄り添うぞ、ということと等値ではありません。善行を施す自分に酔い痴れて、イベントが成功した、と喜んでいるケースが多々あるからです。よく被災地に芸能人が行くと、売名行為だという声が出て来ることがあります。たとえその思いが純粋であったとしても、それが被災地の方々にとりほんとうに助けとなるのかどうかは、確かに一考の余地があるでしょう。同じような目的のイベントでも、子どもの問題を抱えた親は、元気な子どもの集まる時間帯とは別にお呼びする、という配慮をしていたグループがあります。そこまで、そこに集おうとする人の心を優先して開くイベントは、どんなにか祝福されることでしょう。主催する側が、鉦や太鼓で楽しげな企画をいくら提供しても、そこに呼ぶ傷ついた人の心を最優先しない催しは、愛のない賑やかさで終わってしまうでしょう。
気づかないのです。自分が上から目線になっていることに。サービスではないことに熱を入れていることに。先生の立場だけからでは、いくら自分ではサービスをしているつもりだ、威張ってなどいないぞと言い張ったとしても、サービス業の徹底した接客業を知らないとき、まるでサービスにはなっていないことが、自覚できないのです。
人間がいくら自分がへりくだったつもりでいても、キリストはさらにその下で地面にへばりつくようにして、自分を見上げている、そのような信仰が、なかなかもてないのです。神を礼拝するということは、そのような低い神よりさらに下に降りなければ理屈に合わないのですが、それさえも拒むほどに、キリストはつねに私より低くなっておられます。
せっかく学んだ礼拝学であるならば、教会の「サービス」について、さらに実践的に、つまり自分自身がどんなに気づいていないかを教えてもらいたいという姿勢で、学び直してみては如何でしょうか。