手話通訳は説教なのです。

2017年8月24日


手話通訳の奉仕をすることがあります。私たちのように、一人が長時間を担当するという礼拝は少ないそうです。確かに、プロでも15分と言われる手話通訳ですから、礼拝の最初から最後までというのは珍しいかもしれません。
 
しかし、中には、聖書朗読だけは念入りに下調べをした担当者が特別に行う、という教会もあることを聞きました。これは実に理に適っていると私は思いました。なにげなく礼拝司会者が聖書箇所を読む、ということもある中、一部の教会には、聖書だけは別の担当が読み上げる、というところもあるそうです。聖書を神のことばと告白する教会であれば、この神のことばをそのままに読む時間は、特別なはずです。極端に言うと、聖書のことばさえ聞けば(手話も含む)、説教がなくても大丈夫なのです。なぜなら、それは神のことばであるからです。それだから、手話通訳者は、説教内容もさることながら、取り上げられた聖書箇所は念入りに調べます。その聖書箇所だけで、ろう者に福音が届けられるように、ニュアンスや強調点を含めて、特別に扱います。それが福音です。それが礼拝です。
 
また、私は切にこう思います。教会の手話通訳者は、説教者である、と。日本語の言葉を手話の表現に置き換えて機械的に伝えることを目的としているのではありません。手話ニュースのように完璧に「正しい」手話を用いて素早く伝えることが目的なのではありません。教会の手話通訳者は、説教者なのです。ろう者は、牧師でなく、通訳者を見ています。牧師は説教で何を語りますか。福音であり、救いのはずです。ろう者は、通訳者から福音を(敢えてこう表現しますが)聞き、救いを受けます。通訳者を通じて、神がはたらきかけます。通訳者は、説教とは何か、を考えなければなりません。説教学を学ぶ必要があります。また、礼拝とは何かを、その歴史や聖書的意味などから、学び考える必要があります。通訳者自身が聖書を解釈してしまわなくてよいかもしれませんが、通訳者は日本語をそのまま手話の形に移すものではありませんから、やはり聖書を知り、聖書の解釈にも通じていなければなりません。それは聖書学者になることではなく、しっかりと神と出会い、神のいのちを受けていること、聖霊が内にはたらいていることにほかなりません。そう考えると、へたをすると牧師と同等の福音理解をしていなければならず、その上に手話を使うのですから、牧師以上のはたらきである場合があるかもしれません。手話通訳をするということは、聖書を説き明かすこと、救いを、福音を伝えることです。福音を伝えたい、という思いがなければ、教会の手話通訳は務まりません。そして逆に、説教者は、手話通訳者が、ろう者にとって説教者であるという認識を新たにして戴きたいと思います。大切に扱ってください。通訳者は、たいへんなはたらきをしている、福音伝道者なのです。幾人かのろう者のために「手まね」をしているかのような目で見ているようなことがもしもあるとすれば、ろう者を最初から弾き出している、ファリサイ派精神そのものと言わざるをえないでしょう。
 
いま教会はいろいろとすることが多いしたいへんな問題も抱えているのだから、殆どいないようなろう者のために手話を学ぶなどできるわけがないし、する必要もない。そんな思いは、この世には成り立つものだと思います。しかし、それでは中途失調者を含め、ろう者を教会は弾き出すのでしょうか。最初から、その人は教会に来ないでください、と決めてかかるのでしょうか。福音書には、そのような人を、誰がどのように扱ったか、幾度も描かれています。イエスがどう扱ったか、それをここで説明をするほど私は野暮ではありません。また、教会にはろう者がひとりもいなくても、なぜかろう者のために、と祈りが与えられ、手話を学ぶ人がいます。そんなことのためにエネルギーをかけて、と嘲笑う人がいるかもしれません。しかし、ノアの箱舟を見たとき、そのように思っていた人は誰だったでしょうか。神のことばを聞き、それに従うノアたちを嘲笑ったのは誰だったでしょうか。神が、その人に手話への思い、ろう者を隣り人として愛する心を与えられたのです。それは、その教会に、神の業が現れるためだと、「信仰」することは、できないでしょうか。
 
通常の説教だけのこれまでの礼拝は、要するに、ろう者を福音から弾き出してしまっていた歴史をもつと言ってもよいでしょう。ろう者は、キリスト教や聖書に興味をもっても、礼拝に言っても何も分からず、相手にもしてもらえないのです。聴者はろう者を、福音から閉め出していたのです。勇気を出して教会に入ってみても、手話ができないから、と放置されていた例もあります。どうして筆談ひとつ、対応しようとしないのでしょうか。完璧な通訳者など必要ないのです。要は、「隣り人になる」心があるか否かなのです。
 
ろう者は、音声を頼れない分、メールやSNSで、たいへん強いネットワークを築いています。ひとつツイッターでも開いてみると、ろう者のネットワークがいかに広く、素早いか、お分かりになるかと思います。魂を神に捕らえられれば、そこに手話通訳がいるとの情報があれば、距離をものともせずに礼拝に来てくださいます。私の経験の中では、よけいな「雑音」がない分、聖書の福音を純粋に信じる心をお持ちです。子どものような信仰のろう者たちを、閉め出してしまっていたことに痛みを覚え、その人も自分の隣り人だ、という信仰を与えられた方が生まれた教会は、きっと祝福されるでしょう。間違いなく、イエスはそのような方を愛し、励ましてくださるはずです。福音書に書かれてあるイエスが本当であるとすれば。

沈黙の声にもどります       トップページにもどります