墓を磨く
2017年8月18日
妻の実家で、お盆の時期ということで、墓参に行きました。毎年できるだけそれに仕えるように考えています。義父母を車に乗せ、最高で三箇所を巡ります。
細かな事情は記しませんが、その中で小さな墓所があり、小さな地蔵の掘られた墓石がありましたが、石に小さな苔が芽生え始めておりました。私は、備えられていたタワシを手に、それを磨き始めました。
磨くというのは、どこか楽しいものがあります。自分の努力で、目に見えて物が輝いていくというのは、気持ちのよいものです。この苔も落ちて、きれいになれば、との思いでゴシゴシと磨き続けました。
そのうち、茶色がかっていた石が、グレイの色に戻っていくのが見えてきました。いやあ、そこまでやってよいのだろうか、と案じながらも、こうなったら、と思い、本来の石の色が分かる程度にまで、きれいにしていきました。
もちろん、拝みはしませんが、こうしていることも、いくらかでも何らかでも、仕えることになりはしないか、と祈り心でおりました。
折しも、今朝のデボーションで、ヤコブとラバンの契約の石塚のところを黙想しておりました。そこでラバンはいわば世を表し、ヤコブはキリスト者に重なる構図があろうかと思いますが、ヤコブは、どこか独りよがりな正義感を以て振る舞っております。ラバンのほうが、寛大なのです。クリスチャンは世を出ることで正義を貫く感覚をもっているかもしれませんが、世の親族から見れば、身を切られるような思いでそれを見守るものかもしれません。以後互いに干渉しないように、とラバンが石塚を設置しますが、クリスチャンはこうした世の人からも許されているという視点をもつことが必要なのではないか、と教えられておりました。
へたをすると、ギデオンのように、異教の偶像だからと破壊することで正義を実行するようなことを、クリスチャンは英雄的に見たいかもしれませんが、もっと仕えるというキリストの歩みに、従うようでありたい、と感じつつ、磨いておりました。まるで、自分の心が磨かれていくようでもありました。