8月15日ではない(言葉と現実)

2017年8月14日


終戦記念日。いや、それは甘い、「敗戦記念日」と呼ぶべきだ。そのような声に、なるほどと思っていた頃もありましたが、いまはそうは思っていません。というのは、敗戦記念日はいつですかと問うと、8月15日だということになっているからです。
 
先の戦争(京都人にとってそれは応仁の乱のことだともいいますが、それはさておき)は、確かに日本国民には、15日の天皇の肉声による録音がラジオで全国に響いたことで知らされましたが、戦争相手国へは前日の14日に、ポツダム宣言受諾が知らされていました。これにより、降伏が決定したことになります。
 
それで、8月14日または9月2日(降伏文書調印)が、多くの国際的な観点から見た場合の、戦争終了だと見なされるのが自然な成り行きです。ただし、アジア諸国などからは、独立や解放の日として15日を記念する場合もあります。このあたり、Wikipediaで調べると、かなり手薄なので用心してください。
 
この問題をここに詳述するのは不可能です。この15日が、盂蘭盆会の法要に関わるものであろうということも有力な説となっており、ある人は、天皇を祭司と見立てているのではないか、という捉え方をしました。つまり、宣言をした天皇の声が響いた時が決定的な「時」であったのだ、と。
 
私の信頼した資料は次の2つです。特に前者は多数の研究者の手により新聞記事を写真として挙げており、資料としての価値が認められます。
 
『資料で読む世界の8月15日』山川出版社
https://www.yamakawa.co.jp/product/64028
 
ただし、品切れです。Amazonではとんでもない価格がついています。
 
『増補 八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』佐藤卓己 (ちくま学芸文庫) http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480096548/
 
増補版の前にあったちくま新書版はAmazonで現時点で¥1からあります。
 
先に沖縄戦に関するコラムでも告げましたが、6月23日や8月15日を政府主導で記念するとき、それはいつしか軍人や天皇を時の基準に据えるというからくりを有している点に、私たちは目を見張っていなければなりません。その日を使うのには、意図があるのです。戦争について批判を加える場合、いつしか政府の掌の上で踊らされているだけ、という事態すらありうるのだということを顧みる必要があると思うのです。
 
同様に、憲法第9条についての意見を述べる場合にも、いくらそれを大切だと主張しようとも、現にその文言と違うものが活動していて、条文の言葉が建前だけで掲げられている以上、適当にガス抜きをさせられているだけという可能性をも疑う必要があるだろうと思います。そうでないと、第9条という偶像を拝して満足しているだけのクリスチャンたちであることになってしまわないとも限りません。戦争責任などを問題にしつつも、15日という前提の上に乗っかって踊らされているのと同様に。
 
言葉は、ある者はAという意味で理解し、他の者はBという意味で理解しています。双方が、同じ言葉を用いて合意しても、AとBは互いに別の理解をしていて、それぞれが満足しています。しかし結局、権力をもつ側がその思惑の意義でそれを実践してしまうことになります。互いに話し合うという美名のもとに、実は力のある側の思惑が現実となって働くことになります。
 
もはや言葉とは違うものが実態を支配し、動かしています。問題は条文を守るとか変えるとかいうことにあるのではなく、言葉と現実の関係の中にあるトリックを見抜こうとする知恵こそ重要であるように思われてならないのです。為政者は、言語感覚がおかしいのではなくて、周到に、多義的な言葉をある一面の意義によって建前として人々に認めさせつつ、隠し持った他の意義によって現実を動かす正当性を築こうと目論んでいるに違いないのです。

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