ひとを赦せ。――新約聖書の根本的な教え。
2017年8月10日
二千年を経たいま、教会発生当初の社会情勢とは違う常識の中で、同じ聖書の言葉によって共同体の大切な約束が語られています。簡単にいまの理解で読み解くことができない場合があります。それでも、構造的に、同じものはあると思われます。そして、同じ見落とし――錯覚――が起こるかもしれないと思うのです。
教会の中でAがBに悪いことをした。AがBを何らかの形で傷つけた、あるいは損害を与えた。Aが言う。「クリスチャンなんだから、許し合いましょう」
適切でしょうか。
「赦せ」という神の言葉は、Bがこのとき神から聴く言葉ではあるでしょう。そして、Bの口からこの言葉が与えられたと出たのならば、それはそれでよいのです。しかし、加害者のAのほうが、被害者のBもクリスチャンなのだから赦すのが当然である、とこの言葉をAに告げることは、よろしくありません。A自身は神の言葉を受けず、Aが神の役割を果たそうとしていますから、明らかに不適切です。
そんなことは、あたりまえだ。どなたも、そうお思いであるかと思います。それでは、翻って、自分たちの教会生活を省みましょう。私は、このAは、かなり現実にありうるような気がしてなりません。もしかすると、それは私かもしれず、あなたかもしれません。