沖縄戦

2017年8月7日


先日は、教会の皆さま、ありがとうございました。あり余るほどの歓迎の言葉をくださり、恐縮しきりです。沖縄料理は、昨日の沖縄訪問のレポートやこども説教に基づく企画であったことでしょうが、私にはかなり応えました。
 
私にとり、沖縄は特別な思いのある地です。新婚旅行で戦跡を訪ねるために沖縄を選んだほどでしたし、その沖縄で入手した本や写真集は、本土にあるものとはずいぶん異なりました。私は沖縄について熱心に学びました。それでも、自分はしょせんヤマトンチューに過ぎず、ウチナーンチュにはなれません。ヤマトの者が沖縄について少しでも知りたいと思い、いくらかでも学ぶことができたからと言って、どこか高いところから手を伸ばすような態度を隠し持っている、だから何かのときにはその本性が、どうにもならない溝や段差がはっきりと現れてしまう、そんな思いを、沖縄の方々はこれまでも幾度も味わってきたことだろうと推測します。ですので、私は沖縄の心が分かりましたなどと言うつもりはありません。
 
いまは基地問題が眼前に立ちはだかっていると思われます。しかし、その背後には、捨て石と位置づけた大戦のときの考え方、そこで上陸戦となったが故の悲惨な集団自決などの事実がありました。言葉で伝えられた悲惨な戦争の光景をここで再現することは致しませんが、筆舌尽くしがたい地獄の有様としか言えないものがありました。皇民化教育に素直に従った沖縄の人々の従順さを利用し尽くしたかのような仕打ちは、琉球「処分」にも遡る出来事であったと言えるのでしょう。そのことが、こども説教の中でていねいに語られたことには、「伝える」心の大切さをひしひしと感じたものでした。
 
沖縄戦と呼ばれる戦闘は、1945年3月末に始まります。米軍は警備手薄な慶良間諸島にまず上陸し、4月1日に沖縄本島に上陸を果たします。それは、この年のイースターの朝でした。
 
米兵の中には少なからぬキリスト者がいたことでしょう。どんな気持ちでこの日に戦ったことでしょう。いえ、そもそも兵士になるということは、人を殺すことが可能なように心理的訓練を経た上でのことであり、どこか人格改造をされなければできない任務です(その意味では農民が戦に加わった古代イスラエルや日本の戦国時代の話を聞くと、すごいことだと思わざるをえません)。――戦争というものは、軍事施設や建物を壊すばかりではありません。人間自体をめちゃめちゃに壊すことだと理解しなければならないと思うのです。
 
6月23日については、ほかにも記しましたが、軍人の死んだ日であって、沖縄の哀しみを寄せる日には値しないのではないかというのが私の見解です。何かしら記念日を作る必要があるならそれはそれでよいのですが、沖縄での正式な降伏調印である9月7日を「平和の礎(いしじ)」に刻んでいる気持ちをむしろ大切にしたい。6月23日を慰霊の日と決めたのは、1972年の本土復帰の2年後のことでした。日本政府の意図を強く感じます。ついでに言うと、8月15日を終戦の日としたのは、引揚者の給付金に関する法律で1957年以来であり、戦没者追悼式をこの日にすることが閣議決定されたのが1963年。それまでは、8月14日のポツダム宣言の受諾通告の日を以て戦争が終わったという認識が国内でも一般的になされていたのでした。15日は、天皇の録音肉声の放送だけです。どちらにしても、記念日の決め方に政治的な意図を読み取る知恵が必要だと思います。サンフランシスコ平和条約の発効までは、9月2日が一般的な敗戦記念日でした。私は、「8月15日を終戦記念日とは呼ばず、敗戦記念日と呼ぼう」という呼びかけには賛同できません。この日を選んでいること自体が、「乗せられて」いると思うからです。
 
……と、最初の感謝な思いを伝えようとするところから、ずいぶんと違うところまで入っていってしまいました。すみません。でも、あたたかなあの時のことは、ずっと覚えていたいと思います。

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