呼びかけに応える
2017年7月29日
銀行でもいつからか番号で、次の人を呼ぶようになりました。病院では名前が多いでしょうか。しかしプライバシーの観点から、名前が呼ばれてはどうも、ということから、番号制になっているところもあります。これはろう者にとっては役立たないので、予め聞こえないことを受付に申し出るなどするのが一般的です。中には電光掲示板で番号を知らせる、そうした先進的な病院もありますから、様々な配慮がなされているのは事実です。
それはともかくとして、名前を呼ばれた場合、「はい」と皆さんは、返事をなさっているでしょうか。私の観察するところでは、無言で立ち上がり歩いて向かうという人のほうが圧倒的に多いように見受けられます。呼んだほうからすれば、返事がないものですから、その人がいるかいないか、少しの間でも探す「手間」がかかります。打てば応える、という期待がもはやなくなっている現状では、返事がないのが常態化して慣れているのかもしれませんが、時に立ち上がるのがゆっくりという人もいますから、呼ぶほうはやはりいろいろ判断を考えることになります。
呼ばれたほうは、自分はここにいる、当たり前じゃないか、という気持ちでいます。しかし呼んだほうからは、それが分かりません。同様のことは、車の方向指示器にも言えます。曲がる本人からすれば俺が右折するのは分かっているかもしれませんが、対向車や歩行者にはそれが分かりません。自分の行動を他人に知らせる、ということで他人の安全を守ることに、運転者は思いが及びません。とくに歩行者に対しては、何の配慮もない車が多々あります。
呼ばれれば、返事をする。そして、自分が相手に対して何をしようとしているのか、意図を告げる。基本的な、汝と我の関係を蔑ろにしている。
本来絶対者(それ自身として存立し、相対する存在を必要としないもの)として、人、それも個人に対してなんぞ向き合う義務のない神が、こんなちっぽけで無価値な「私」と向き合ってくださる。その「私」の名を呼んでくださる。
私のほうが、どちらにいるか分からない神に向かって、神よ、神よ、と吠え叫んでいるのではありません。その必要すらないほどに、神のほうから私の名を呼び、呼びかけてくださっている。あわれみ深く思いやってくださり、問いかけてくださる。
この呼びかけに、応える。羊飼いの声を聞き分けて、それに従って行く。その声は、肉の声ではないでしょう。殆どの場合、それは聖書の中からの呼びかけとなります。神の心は、その中から立ち現れます。自分を信じて、自分の声に従うのではない。最も頼りになどならない自分が歪めた聖書のことばではない。耳をすませば、いわば祈れば、細き声で神は呼びかけていらっしゃいます。幼いサムエルが錯聴したようなことも起こり得るでしょうが、「ここにおります」とはっきり返答をすることで、神の語る方を向く者でありたいと望むのです。