説教
2017年7月23日
『文学としての説教』という本があります。日本基督教団出版局発行で、いま税込みで3000円ほどで購入可能です。2008年に出版されたころに入手して一度読んでいましたが、ふとしたことからまた目を通すことになりました。
説教塾主宰の加藤常昭先生。時に黙想や説教において、ストレートに福音を語ってくれますが、今回の著書としては、論文という立場で提示しているような、専門的な視点をも取り入れた語りとなっていました。
説教。それは牧師が毎週体験すること。最初のどきどきした経験が、毎週毎週の出来事となると、いつしかこんなものかなというふうにもなりかねない罠がある中で、つねに上よりの知恵と力を受けながら言葉を紡いでいく、その日常が繰り返されていくことでしょう。いや、お叱りを受けそうですね。自分が語るのではない、神の語りがただ自分を通してなされるだけなのだ……そういうことかしら。
説教と文学という概念がうまくマッチングするのかどうか、それが本書で成功したのかどうか、私は判断がつきませんが、どのように語るとよいのかという点において、文学的なものが説教の重要な要素にあるという点では、私は共感できます。
牧師だの伝道師だの、肩書きがあったところで、他人事のような解説で終わってしまうだけの「聖書講演会」しかできない人を、何人か見てきました。全く命のない受け売りの話を毎週聞かされることには耐えられませんでした。しかし命のある説教は違います。自分がキリストに出会った、聖書にすがった、そうした体験が確信となって、説教には自ら現れるものなのです。
また説教は論文でもありません。論理だけで説き伏せようとするような宗教とは違うからです。語るのは神。聴くのは人。神と人との出会いがそこでなされる時間と空間を、説教は形成することでしょう。聴く者は、聖書の中に自分を見出すようになるでしょう。聖書の物語が、自分の出来事となるでしょう。そして文学というものが、そのような場であるというのであれば、私は喜んで、(本書がそのように言っているかどうかは別として)説教は文学であるべきだという考えに拍手を送りたいと思うのです。
事情があって、幾度か礼拝の講壇に立つことを許されました。回りくどい構成を以て臨む私は、一時間かかるような説教にもなりましたが、その説教で教えられたこと、告げたかったことは唯一つでした。大学生を前にチャペルアワーに招かれて語らせて戴いたこともありました。何かしら関心をもってもらったことはうれしく思えました。いずれも感謝な出来事でした。その説教がつくる場が、そこにいる一人ひとりが神の出来事の中に入り、神と出会い、向き合うひとときであるように、とその都度語りかけてきました。そのために、聖書に新しい光を当てることに挑んできました。しかし奇を衒ったわけではありません。落ち着くところは、至ってノーマルな福音のもたらすところでした。人を生かすことばを語りたいと切に願いました。
何も、好みの説教を求めて教会を探してきたわけではありません。FEBCで毎日曜日に放送される教会の説教を受け取り、連日一つは説教集から説教を味わおうと努めている生活を続ける中で、私は、主日礼拝ではまたその都度、神からの問いかけや呼びかけを受けつつ、命のことばを感謝して生かされているだけの小さな者であります。