聖書の適用
2017年7月19日
問題は、聖書の言葉を、自分に適用するか、他人に適用するか、ここに捉えたいと思うのです。ある聖書の言葉を、他人に適用すると、裁きとなります。自分に適用すると、自分の罪となり、神の救いの恵みを覚えます。
同じ言葉でも、それを発する者の立場によっては適切にもなるし、不適切にもなるからです。被害者が「自分にも非があった」と口にするのと、加害者が「おまえにも非があった」と言うのとでは、意味合いが違ってきます。近年、第三者が、匿名的に、被害者に「おまえにも非があった」と声を重ねる傾向が強くなっています。この集団心理を私は恐ろしいと思うし、人間はそれに囚われる傾向性をもっていると感じます。だからこそ、聖書の言葉をどう自分が捉えるのか、意識していたいと考えるのです。
声を発するのは大切なことですが、自分はどうかという検討の余地なしに、他人を責めてばかりというものであったとすれば、福音書の中の誰に似ているか、少し立ち止まって考えてみたいと思うわけです。
それは、たぶん私の癖となりました。「あなたはどこにいるのか」の問いかけは、何ものかを批判したくなったとき、自分も同じことをしているのではないか、というような視点を直ちに感じるのです。どうかすると、そちらのほうが先行します。ここでは抽象的な表現しかとりませんが、信仰に立つ自分は正義であり相手が間違っている、と吠えるばかりの言明は、キリスト教の悪しき歴史を継承するばかりのようで、悲しくて仕方がないのです。イエス・キリストは、それをこそ諫めたのではなかったのか、と。