聖書の教えのどちらをどうとる?

2017年7月17日


聖書には、人の目には相矛盾する命題が置かれていることがあります。十戒で「殺してはならない」とある反面、住民を「殺せ」と神が強く命じる。いや、それは同胞と敵とを区別しているのだ、という説明をしても、新約になると敵を憎めすら否定されている。聖書を読んで教会を訪ねた人がこんな疑問を牧師にぶつけてきた場合、答えに窮することがあるでしょう。いや、旧約の掟は乗り越えられたのだ、などと言うと、では十戒も今は無効なのですか、のようにくるかもしれない。ああだこうだと説明を加えると、恰も天動説を護るために惑星と衛星の動きをとんでもなく複雑に説明しなければならなかったのと同じような事態に陥ってしまいそうです。それをまた護教的と批判する眼差しもあるでしょう。
 
聖書の句を、ほんの一部を切り取ってそこだけを指摘して、これが絶対だ、と掲げたくなる私たちの心理に、気をつけなければなりません。特に手紙には、その送り先の状況や場面、時代的常識というようなものが強く、いまここに生きる私たちにどう適用するかは慎重でなければなりません。もちろん、福音書の時代の生活感覚や社会常識からくるものも多々あるはずです。しかしまた、昔のことだから関係ない、と無視するのも、極めて恣意的にならざるをえず、いつでも人間というものは自分中心になるものだと我ながら呆れるほどです。
 
諺と同列には扱えないにしても、互いに反対の意味をもたらすような言葉が聖書にある前提から考えてみましょう。ですから、手紙にしても、その時の具体的な情況の違いがありますから、場面によってはAをせよといい、あるいはその逆のBをせよ、と言っていても、殊更に矛盾と呼ぶ必要はないと捉えてみます。ただ、いま私たちの教会では、AかBかどちらかを基本的な路線として教えることが多いものです。ある意味で、都合のよいほうをメインにしていると言えるかもしれません。
 
便宜上、Aの反対を言うのがBということで話を進めます。また、教会では基本的にAのほうを中心に教えることが多い、という前提にしておきます。
 
ある人は、Aのようなことがよいと考えています。そして、聖書にAのことが書いてあることを知ります。教会でもAの話がありました。この人は、自分が聖書に適った生き方や考え方をしていると喜んでおりました。そこへ、Bをよしとしているクリスチャンがいました。あらあら、あの人は聖書に反することをしている。聖書にBが書いてあることは聞いたことがありますが、やっぱりAが本筋だと考えるのです。それでその人がAのようになることを祈りました。
 
ある人は、Aのようなことがよいと考えています。ところが、聖書にBのことが書いてあることを知ります。教会ではAの話がありました。この人は、確かにAは大事なことでもあるけれど、聖書にBと書かれていることを気にしました。そこへ、Bをよしとしているクリスチャンがいました。それでこの人は、AがよくてBがだめだという判定をしないことにしました。少なくとも、Bをした人のことを、悪く思うのはやめようと思いました。
 
どちらも、ありうることだと思います。最初の「ある人」にしても、なにもBをする人を裁いているわけではないでしょう。でも私個人としては、たぶん後のほうのような捉え方をすると思いました。Aがよいと考える自分を自分で肯定してしまわない態度を取るだろうという気がしました。果たしていつもそうかと問われると自信がないし、そのAとかBとかいう内容によっては激しく態度を硬化させることもあるかもしれません。でも、そんなときこそ、また聖書から詳しく聞きたいものだと思っています。

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