半ば
2017年7月1日
2017年も後半。ただし、2月の短い月のため、明日7月2日が365日の中央となります。しかしそもそも何故1月1日なのかという基準が私にはよく分からず、人類の決めたことは、自然の決定より意味不明でもあります。ローマ時代に紆余曲折あって決まっていったという、この30日ほどの「月」と、31日の由来など、一時は関心をもって調べておりました。なんともわがままなローマ皇帝の一存で31日が決まり、その分、年末の2月(3月からスタートの発想は、4月の年度初めを日本がいまもやっているのと同様)から日が削られるなど、不合理も甚だしい。元号もそうですが、「時」をも支配しようとする為政者や権力者の思惑がそうさせるのでしょう。
天体の運行から時を決めるためには、精密な観察と計算が必要です。暦を定めることは、古代エジプトでも洪水の時期云々などと言われますが、その程度の必要ではなかったはずで、同じエジプトでも、ピラミッドなどの建造には驚くべき計算が施されていました。正確な直角は三平方の定理を経験的に知っており、計算は高度な分数を操っていたことが分かっています。マギと呼ばれる東方の博士もまた、こうした計算に長けた学者であったと推測されます。科学の最先端であったはずです。しかしそれはマジック(魔術)のようにも見られる可能性がありました。出エジプトの時の呪法師たちの業も一定の科学的な営みであったのではないかと私は思いますが、科学的現象の背後に神の意図を見たり、いまでは無理と分かっていても錬金術が可能なはずだと熱心に調べたりした歴史もまた、科学史の一部になっています。ニュートンもその意味で神秘的科学者であったし、政治家としての業績のほうが当時は偉大であったとも思われます。
いま私たちが、過去の出来事を知り、解釈をし、あるいは価値判断をします。私たちはそれを真理と見なし、常識だと考えます。けれども、かつての人々もまた、当時はそれが常識でした。後世の判断基準で非難することは適切ではないと私は考えます。「驚くばかりの」の歌のほうのニュートンは、奴隷商人の自分を悔いて作詞をしていますが、昔からよくあったように、嵐の中で祈って助かったことで神に忠誠を誓い、聖書を真剣に読むようになります。そしていわば回心しつつも、奴隷貿易はその後もしばらく続けていたと言われています。体をこわして牧師となり17年後、「驚くばかりの」を作詞しています。しかし、だからニュートンは思いと行いとが一致していない、などと私たちがとやかく言うべき立場ではないでしょう。
聖書に書いてあるから、それは悪いことだ。けしからん。改めないなら死ね。昔から、このように聖書を理由として、多くの人を差別し、圧迫し、殺害してきた歴史が、残念ながらあります。パウロの手紙にはとくに、当時の生活環境に合わせた苦言や、パウロによる一定の裁きの言葉があります。それを根拠として、ある種の人々を殺し、自分は神のために働いている、と思い込んできた歴史があるのです。自分に都合のよい言葉尻を以て、他者を裁く。しかし自分に都合の悪い部分は聞こえないふりをする。有利な立場にある者は、そのように聖書を「利用」してきました。こうした歴史を見て、その人々をまた私たちが裁こうとしているのではありません。その歴史から、学びたいと思うのです。私もそのようなことをしていないか。いや、きっとしている、というくらいの気持ちで、過去の人間のしてきたことを受け止める、そこに、イエスと出会った者が気づく恵みがあるのではないかと考えます。
日の下に新しきことなし。そんな知恵も聖書の中にはあります。だとすれば、私もまた例外ではないのです。当たり前の話。あのファリサイ派の言動は、おまえもともすればこのようになっているよ、という警告です。私たちは、福音書の結論を知っているという理由だけで、正義の味方になれるわけではないし、主イエスといつも同じ側で腰巾着のように振る舞っていられるわけではありません。むしろ、イエスの前に現れる様々な至らぬ人々にこそ、ここにおまえが描かれているよ、という神の指摘が示されているのではないでしょうか。
ここに思いを馳せると、まるで、自分はだめだ、なっていない、と落ち込むことしかできなくなるような気がするかもしれません。でも、そうではないのです。だからこそ、イエスは呼びかけたではありませんか。だからこそ、イエスは死んで甦り、我に従えと真正面から声をかけたではありませんか。そしてそれを他の使徒たちとは違う角度で体験したパウロが、イエスの死と復活の意味を、慰めと励ましと共に私たちに説明してくれたではありませんか。福音書記者たちは、イエスが共にいるのだと告げ、罪を認めるならば救われると誘っているではありませんか。
私たちは象の一部しか触ることができない身です。自分の思いついた聖書の解釈を基準としてひとを裁くようなことはできるはずがありません。教会のその牧師も、あなたの思った通りの説き明かしをするわけではないでしょう。しかし、その牧師がイエスと確かに出会ったことのある人であるならば、必ず、イエスからの風が吹いてきます。それを週ごとに受けて、新たないのちをもらうことは可能です。イエスを見ている人の言葉からは、必ず教えられるものがあります。イエスにつながる糸が紡ぎ出されます。私は、すでにここまで導かれたという恵みがあると共に、いまだこれから待ち受けている楽しみな恵みもあります。つねにいまだ道半ばという思いはありますが、信頼の中で安心を得ているから、ただの半ばなのではありません。2017年の半ば、頭の中を駆けめぐる思いを零してみた次第です。毎度ながら、長文失礼いたしました。