「神を信じなさい」は伝わっていない
2017年6月25日
同音異義語。といっても、「貴社の記者は汽車で帰社した」というようなタイプとは違います。古文と現代文との違いとして学習すべき課題として、同じ語として保たれつつ、意味が変わったという語をマークする必要があります。
たとえば「あした」は、昔は「翌朝」や「朝」のことですが、いまは翌日のことです。しかしこれは「讃美歌」の中にも普通に出てきて朝を表すので、勘違いをしている若い人がいるかもしれません。いえ、若いかどうかはさておき。
「かしこし」も「おそれおおい」ことだとは、学生なら必須でしょうが、「讃美歌」にはたくさん現れ、これを手話で歌うとなると、知らないと間違えてしまいそうです。
前置きが長くなりました。教会用語の話です。さすがに最近では、教会内部でも、「恵み」や「贖い」という言葉は、教会や聖書を知らない人には通じない、という認識が強くなってきました。もちろん説教で使わないわけにはいきませんが、教会の案内や呼びかけの文章にこういう語が並んでいたら、誰も読んでくれない、逆に遠ざけてしまう、という意見が主流となりました。以前は、何か確信をもって主張していれば、ひとのほうが知りたがるものだ、と構えていた風潮もあったかもしれませんし、そういう態度が、キリスト教を金持ちやエリートの宗教だと思わせる雰囲気をこしらえてきた点は、謙虚に省みなければならないと思います。
しかし、高圧的に「信じなさい」とは言わないまでも、マルコ11:22にあるように「神を信じなさい」という思いは、すべての伝道に伴うものでありましょうし、「信じる」「信仰」という言葉を欠いては、何も始まらないでしょう。
けれども、「神を信じる」という言葉を聞いたとき、一般的に、日本人は何を思うでしょうか。私は、かつて自分にそういう時代が長かったことから断言しますが、「神さまはいると思う? いないと思う? それが、いるんだよね、いると思うよ」のようにしか聞こえていないはずです。もしかすると、洗礼を受けた人の中にも、「神は存在すると思う」からそうしたという人がいるかもしれません。それだけの理解でも、礼拝説教で聞いてきた「知識」をつなげれば、「信仰告白」としてさほど違和感のない文章にはなるからです。そして受け容れる側も、当人が「神を信じました」と言えば、それを疑うことはよいことではない、という前提があります。これで本人も、自分は信じたんだ、と晴れやかな気持ちになり、昨日ご紹介したルカ11:24-26のようなことになる可能性が出てきます。
そして私は現に、そうやって神学校に行ったり執事を長く務めたりして後に教会をたいへんなことにしてしまった人々を知っています。この人たちは、自分の罪という問題を通っていないため、自分が被害者であるという意識はもてても、加害者であるとは気づくことができないため、結局自己愛と自己義認しか果たせないのでした。
最近増補改訂版が出版された、マクグラスの『神学のよろこび』はたいへん読みやすく、それでいて本質的な問題を突いて問いかける、私の目にはひじょうに「ためになる」本だと感じていますが、そこには、「信仰」とは「信頼」として理解してみようという提案がありました。キリスト者にとっては、それはある意味で当然のことでありましょうが、改めてそれを提示しなければならないところに、欧米における宣教の問題も見え隠れするような気がします。神との個人的な関係の中に、「信じる」という語のもつ世界がつくられていくはずですが、もしかすると欧米でも、「神は存在するかどうか」だけのメルクマール(判断基準)で、教会の内と外とが分かれているという状況が始まっているのかもしれません。
さて、「神を信じる」という根本的な命題についてさえ、キリスト者とそうでない方との感覚の違いが露呈していると思うのですが、もしそのことに教会側が気づいていないと、魅力的な誘い文句だと呼びかける言葉が、却ってひとを教会から遠ざけるようにはたらいてしまう、という事態を招きかねません。よかれと思って呼びかけながら、聞く相手の心情に寄り添えなかったための悲劇です。
もっとあるかもしれません。教会に来ておらず、聖書を読んだことがない人にとって、教会から語られる言葉やメッセージは、まさに「異言」でしかない場合があります。まさに「異言」ではなくと、説き明かす者、あるいは「預言」が必要だと感じます。内部にいるとそれが区別できなくなります。
教会が語る言葉、それは日本では、キリスト教文化が背景にある欧米の土壌における語られ方とは、当然違ってくるはずです。その点、アジアにおける宣教は、違う文化の中に語られる言葉であり、参考になります。アジアは、確実に宣教が拡大している地域です。植民地として欧米文化に染め上げられたという印象が少なく、しかしそこへ宣教する言葉がいまも生きてはたらいています。日本は、むしろこのアジアでの神の言葉のはたらきに、学ぶところが多いのではないかと感じます。その点、『福音と世界』の7月号は「改革しつづけるアジアの教会」という特集で、案外私たちが好んで知ろうとしない現実が紹介されていて、有意義でした。『Ministry』も、去年中国や香港を特集したことがあります。
自分にとっての常識は、他人にとっての非常識。そのくらいの構えで、放つ言葉について検討してみるという機会を、とくに教会の伝道担当の部は、もつ必要があるのではないか、と私は常々感じています。