沖縄「慰霊の日」
2017年6月23日
沖縄「慰霊の日」
と言いながら、私は個人的に、この23日をあまり重視しないのです。牛島中将らの自決により建前上組織的戦闘が終結したとされる日であり、中将はこの死の故に大将へと昇格などしているのですが、戦闘はこの日で止むわけでなく、その後も多くの犠牲者を出しています。戦闘は終わりません。23日という日付は、沖縄駐留の司令官が死んだというだけの日でしかないのです。これをどうして第一の記念日とするのでしょうか。誰がそれを決めたのでしょうか。この司令官の司令のもとに、軍は地域住民に何をしたかという点では、筆舌尽くしがたいものがあったこと、それは生き残った証言者たちの言葉からもっと聞かなければなりません。だから私はこの日付の「慰霊」には共感をもてません。このあたり、右派とは対極的に位置する諸新聞も、問題意識を感じていないとしか言いようがありません。軍人の命日を以て慰霊する儀式に乗せられていることに気づかないかのようです。
太平洋戦争は、法的には9月2日の降伏文書の調印が戦争終結の合意と見て然るべきかと思われます。ポツダム宣言受諾だとしても、むしろ8月14日のほうこそ記念する日であるべきだし、事実戦後しばらくはそのように見られていた形跡があります。だのに、サンフランシスコ平和条約のあたりからか、政府が15日を記念日と変えていった経緯があります。これは、天皇が祭司職を務めたという印象を与えるためではないでしょうか。「盆」という行事を重ねるかのようにして、うまく天皇中心にしてしまったと見てはいけないでしょうか。アジア諸国では、日本から解放されたとして、15日を決定的な日と祝うケースが目立ちます。これとかち合わせて、謝罪や侘びではなくて、国内の「慰霊」一色に染めてしまうためにも、天皇の祝詞を中心に据えていこうとした、と見てはいけないでしょうか。
公式の沖縄での降伏調印は9月7日であるため、国定公園「平和の礎」ではこの日を掲げているといいます。しかし、条例は1974年に、6月23日を「慰霊の日」と定めました。日本に復帰したことで、日本政府の方針に歩み寄ったか、政府の働きかけがあったのではないかとすら邪推してしまいます。ここには、まるで8月15日を終戦の日と定めたのと同じような図式があります。つまり、意図的に設けられた「戦没者追悼」という名目で意識をこの日に集中させることで、8月は天皇、6月は軍人を祈念させるように仕向けている、という点を見抜かなければなりません。
しかし、もし沖縄の人の思いが今日集められているのならば、その心そのものは尊重するしかないと考えます。
また、アメリカ軍の沖縄への上陸があった4月1日は、イースターでした。米軍兵士の中にはこの日を信仰の思いで迎えた人もいたことでしょう。戦闘に出るということは、ある意味で殺人を肯定するための心理的麻痺を訓練されていくということでもあるといいます。戦争は、人間の心を変えます。隣の人を殺せば殺人罪で死刑にすらなるのに、いざ敵国というお墨付きがあれば、殺しても無罪どころか、多く殺せば英雄とされます。しかも、その墨を与えた者は、自分の手を汚すことを全くせず、最も守られるべき陰に隠れているのです。
四半世紀ほど前、この日を前に福岡に戻りましたが、私は新婚旅行をこの時期の沖縄で過ごしました。殆ど垂直に照らす陽を浴び、数十年前の出来事を知りたいと訪ねました。戦跡を訪ね、沖縄の祈りに少しではありますが、思いを重ねてきました。
いま生きる人々の生活も大切です。しかしまた、皇民化教育やいわば究極のパワハラなどで残虐な殺し合いを強いられた人々に思いを馳せながら、これがまたこの国の空気を染めていくような重苦しさを感じざるをえないのかとも案じています。あの酷い集団自決の証言を聞きましょう。それは、私たちの将来かもしれないのです。そんなことは考えられないとお思いでしょうか。当初は尤もらしい理屈で上塗りをしていながら、それが剥げてくると「仕方がないじゃないか」と畳みかけて死や滅びへと突き進ませるこの国の精神構造に、お気づきの方は多いはず。いまの政治世界でも、普通にそのようなことが起こっているではありませんか。このような歴史を、現実を、私たちは、ほんとうに学んでいるかどうか、問われていると思うのです。
平和とは、何でしょうか。