「あなたはどこにいるのか」
2017年6月12日
「あなたはどこにいるのか」
私にとり、神との出会いは、この問いかけを浴びた時だったに違いありません。
きちんとした音楽教育など何ひとつ受けてはおらず、けれどもギターを知って、自分の思いを歌にすることができるようになって、愛の唄などをつくりはじめたのが、中学生のころ。いつも誰かを愛している、などという思い込みが、後にどれほどひとを傷つけることになったのか、いや、傷つけていたということに後から気づいたとき、どれほど自分に絶望することになったか、それは、私にとって、砂の城が崩れ落ちた経験でありました。哲学の大学院生の時のことでした。
電車に飛び込もうかとまで思い悩んでいたころ、高校の友人からの手紙に、三浦綾子さんの『帰りこぬ風』という小説がよかった、と書いてあったのを見て、なんとなく読んでみようかと思いました聖書の言葉がごく一瞬登場します。しかし主人公がその言葉で人生の見方が変わるという場面でした。「聖書か……」と私は部屋の天井を見上げました。
そもそも福岡から京都に来たのは、哲学の街に憧れてのことでした。自分のテーマもありましたが、梅原猛氏の「哲学」に魅力を覚え、西洋哲学が現代の悪を招いたと思い込むようになっていたため、それを破壊するにはどうすればよいのか、と考え、西洋哲学の要と見たカントを専門とすることに決めました。熱心に学びましたが、しかし、そんなことが簡単にできるわけがありません。「聖書か……」という私の溜息は、西洋哲学の二つの源流のひとつであるキリスト教の聖典である聖書を、私は一度もきちんと読んだことがなかったせいでした。聖書を読んだこともないのに、西洋思想の批判ができるだろうか、と気づかされたのです。
高校の同級生が、国際ギデオン協会を学校に招き、新約聖書を配付していました。それを京都へ持って来ていたので、それを開いて読み始めました。美しい言葉に心が洗われるような気がしました。死にたいとまで思っていた心にとり、聖書の言葉は薬のように効いてくるものだったのです。
第一コリントの愛の章まで来たとき、私は、頭をハンマーで殴られたと思いました。居並ぶ愛の形容が、自分を主語にしたときに、どれひとつとっても当てはまらないではありませんか。それより、どんどん恥ずかしくなっていきます。自分がどんなに愛することに酔いしれて歌をつくっていたか、思い知らされました。惨めでした。
「誰かひとりでもいい。ひとを愛することができますように」
私の、初めての、祈りでした。ただ自分の心の中での祈りに過ぎなかったかもしれないけれども。
聖書を買いました。旧約聖書から全部、最初から読まなければならない、という迫りが何かあったのです。天地創造に続き、ひとが創られます。そしてひとは、パートナーと共に、神のタブーを冒してしまいます。すると、神の近づく気配の中、ひとは物陰に隠れます。神は呼びかけます。
「あなたはどこいるのか」
隠れていたのは私でした。参りました。自分から神の前に出て行った、というよりも、首根っこを捕まれて、ずるずると神の前に引きずり出されていったのでした。この後、十字架のキリストと出会います。神と私の出会いは、これで3分の1であるのですが、なんといっても、神の前に自分の惨めさ――少し後でこれを罪だと意識して呼ぶようになります――を覚え引きずり出されたという発端という点で、「あなたはどこいるのか」の問いは決定的でした。
以後、十字架のキリストを示しつつ、神は私に呼びかけます。この問題はどうなのですか、と神に問えば、聖書の中にある言葉で応えてくださいます。神は聖書を通して私へコンタクトし、私は十字架のキリストを通して神の思いを垣間見ようとします。どちらから見るかによりこのように異なりはしますが、「ことば」とイエス・キリストとが一致するという理解の中で、この図式は統一されるものとなりました。
アダムへのこの問いは、エリヤへも少し違った形ではありましたが、問いかけられていたと捉えています。また、表現上は異なるにしても、「あなたはどこいるのか」という内容をもつ問いかけは、聖書の中のそこかしこで投げかけられていることに気づくようになりました。聖書の記事を、私はさしあたり能動的に読んでいます。しかし、聖書の記事を通して、神からつねに私に向けて問いかけがなされているようにしか、私は聖書を読めません。ここに物語がある、その中でいったい「あなたはどこいるのか」。イエスの旅での出来事が描かれる、その中でいったい「あなたはどこいるのか」。
私は飽きもせず、聖書を窓口として、私の受けた恵みを分かち合いたいという思いで、二日にひとつを目標に、説教にもなりうる要旨をこの場で公開しています。それは、聖書を通じて、あなたにも神に出会って戴きたいからです。そうすると、人生が変わるから。神と出会った自分と出会うこともできるから。私の意識はそのように高められてもいくから。自分がどんどん小さく低くなっていく経験をしながらも、否応なく立ち上がらされ、高く上げられていく幸福を味わわせてもらえるから。それまで気づかなかった、ひとの心も感じるようになれるから。
自分の立っている場所が、どこであるのかが分かるようになるでしょう。それは、信頼できる確かな基盤であると知りますから、恐れや不安も消え、何があってもどんなときでも、信頼できるものが自分にはある、という強みが伴う人生になるでしょう。しかしそれはまた、ひとの弱さや哀しさにも、より近づける視座と体験をもたらしてくれるはずです。十字架のキリストが、きっとそうであったように。