与えられた恵み
2017年6月5日
与えられた恵み #キリストの体を建て上げよう
「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」と、パウロお得意の、キリストの体のイメージから説明されている、キリスト者一人ひとりの役割。はたらきも考えもいろいろあることでしょう。信仰の度合いと呼べるようなものもあるでしょう。しかし、真理はイエス・キリストそのお方なのですから、私たち人間の誰かが真理そのものであるわけではないのです。強いて言えば、キリストの体につながる私たちの全体が、真理であるということになるでしょうか。
「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います」とパウロは忠告します。パウロもまた、この人々と同じキリストの体の一部であることを自覚している書き方です。パウロが、キリスト者一般から超然と眺めていないことが分かるからです。自分も同じように「与えられた恵み」の中にいること。だから、私たちは自分が神のように振る舞ってはならず、安易にひとを裁いたり、自分の考えが絶対に正しいと見なしたりしてはならないわけです。
体の一部は、直接接しない他の体の部分とも、何らかのつながりをもっています。人体だと、「ツボ」と呼ばれる部分があり、足の親指のあたりを刺激することで、目の疲れが取れるなどといった不思議なつながりがあると言われています。キリストの体につながってさえいるならば、いまここで見ることのできない仲間のことも、自分のことのように考えたいものです。
礼拝に、なかなか出席できない人がいます。病気や怪我のため、老齢のため、仕事のため、家族の世話のため、心が塞いでいるため、その人の痛みや悩みがどのようであるか、分からない場合もあります。礼拝に来て喜んで賛美し、神のことばに励まされている自分が、そこで出会う人のためばかりでなく、不在の人のことを覚えるで、キリストの体をつくりあげる営みに参与することができる場合があるのではないか、と考えました。
「わたしに与えられた恵み」を、私もパウロのように活かす道を求めましょう。見えるものさえ見えていないことの多い私ですが、より、見えないものを見るように努めましょう。見えないキリストの体を建て上げるには、その祈りが必要だと思うからです。