ペンテコステ礼拝
2017年6月4日
「ペンテコステ」、なんとも聞き慣れない言葉です。ギリシア語そのままで、聖書のごく一部に使われているだけの語なので、馴染みがありません。ユダヤの祭を、ユダヤの言葉ではなくギリシア語訳にしているので、ますますピンときません。
では日本語訳にしましょう、と「五旬節」と表しても、何のことか分かりません。若い世代だと「50日目」も「時期」も、意味すら取れないかもしれません。さらにまた、教派によっては「聖霊降臨祭」など別の表現もあるというから複雑です。
ユダヤの過越祭から50日目、麦などの収穫を祝う祭の名前です。ヘブライ語では「シャブオット」という言い方になります。これは、収穫を祝うとともに、歴史的に、モーセが山で律法を与えられたことを記念する祭です。律法の学びとともに、ルツ記が読まれるとも言われています。
キリスト教では、クリスマス・イースターに並ぶ三大祝祭日であり、ペンテコステは、教会の始まりだとも言われるのですが、近年イースターまでファッション化してきたせいか、ますますマイナーな印象さえ感じられます。それどころか、キリスト教会の中でも、何か特別感をもたれずになんとなく迎え、ああそう、で過ぎて行くように扱われているのが実情ではないでしょうか。
ファッションとなったもののうち、まずクリスマスは、その名が「キリスト礼拝」を表すように、本来厳粛なものです。が、その日付どころか時期からしても、聖書的根拠がありません。それどころか、ローマの太陽神の祭の時期にしたのではないかとか、ケルト神話と関係が深いとか言われ、ツリーですら冬至祭の樹木信仰者を引き寄せるためではないかと見られているわけで、現代のただの商業的なあるいは欲望的なお祭り騒ぎだけが奇妙なのではないことを考えてしまいます。こうなると教会で祝うから「ほんとうのクリスマス」なのだなどと言うべきなのかどうかも、保留されなければならないでしょう。
イースターは、そもそもなぜ「イースター」と呼ぶのか、私は解せません。確定されてはいないようですが、ゲルマン神話の神の名に由来すると一般に言われています。イエスが命を棄てた――ほんとうの意味の「命懸け」――ことから、しかし真実のいのちは滅びないことを神が示した復活が、どうして「存在しない」女神の名で呼ばれてよいのか。日本神話では春の女神に佐保姫という名前が見られますが、「佐保姫祭」と復活の出来事を呼んで平気でいられるのかどうか。もちろん、卵やウサギについては、言うまでもないことです。
ちょうど仏教や神道の行事が私たち日本人の、素朴な季節感の中で行事や習俗となっているのが自然に受け容れられるように、欧米では、キリスト教文化があまりにも生活全般で当たり前になっていた過去があり、そのため、儀式や典礼といった感覚とは関係なしに、従って聖書や伝統に基づく根拠というよりも、生活を華やかに彩るアクセサリーのように、異教的な要素がお堅い行事を和やかにしてきたのでしょう。
ペンテコステも例外ではなく、特にヨーロッパでは、私たちの知らない風習を以て祝うらしいのですが、いくぶんマイナーな分、クリスマスやイースターほどには、異教の香りがしないようにも見受けられます。その辺り、どうなのでしょうか。
もしそうなら、もっと堂々と、ペンテコステを祝いたい、とも思います。もしかすると、どうしてもこの名を冠した派のことが頭を過ぎるかもしれませんが、そんな度量の小さい構えで、何が「信仰」でしょう。いやいや、異教の色に染まろうとも神は真実なんだよ、と捉えるほうが、よほど神を信頼していることになるんだよ、とお説教を食らうかもしれません。私個人は、その通りです。しかし、神は「聖なる」方です。私たち人間の好む絵の具で色を塗りたくって喜んでいる場合ではない、と私は理解しています。人間が神を限定したり規定したりすることには、いつも警戒をしていたいと考えています。
神は聖霊という姿で働きかけます。それは形を全くイメージすることができない故、私たちが規定することはますます困難です。ただ、聖霊は実を結びます。パウロがガラテヤ書で掲げた9つの実は、神との関係・他人との関係・自分との関係に3つずつ分けて見ることができます。これらを気にかけながら、私たちがキリストの方を向いていられることそのものが、聖霊のなす業であり、私たちはそれをもたらしたキリストの復活を証言する者であることを弁えて、ペンテコステを感謝したいと思っています。