礼拝と食事

2017年6月8日

礼拝についてのあり方を知る機会がありました。出席者の礼拝に対する印象として、学び、多くは交わりを礼拝の中に見ていたのが目立ちました。もちろん、聖書のことばや祈り、賛美ということも礼拝です。神に献げるという思いがなければ礼拝は成り立ちませんし、主イエスが中心にいてくださることは、当然と言えば当然です。安息日であるという意識や古代の祭儀をイメージすることも必要でしょう。そのいけにえというところから、イエスの救いがもたらされるのですから。
 
どれも正しいのです。礼拝はそれくらい、神と人との出会いの場として、あらゆる事象を含んでいます。
 
その中で、ひとつ、大切なところが強調されなかったかもしれない、と思い、考えてみることにしました。それは、「食事」です。
 
近年とくに、リタジーという名で日本でも広まってきた「典礼」という考え方の中で、「聖餐」または「晩餐」は、重要な位置を占めています。2017年、ルターによる宗教改革の始まりから500年を数えましたが、そのいわゆるプロテスタントでは、カトリックが捉えた七つの秘蹟の中で、洗礼と聖餐だけは結果的に外すことができませんでした(ルターは「告悔」をも残そうとしていました)。洗礼はその人にとり一度だけですが、聖餐は毎度繰り返されます。毎週すべきだという声も多く、年に三度ほどしかないプロテスタント教会もありますが、概ね毎月一度というのが多数派でしょうか。
 
とくにカトリックでは、「聖体拝領」とも呼ぶこの聖餐を毎週行い、それがなければミサとは呼べないほどに考えられています。「礼拝」というとき、この「聖餐」は非常に重要な意味を有していることは間違いありません。
 
教会の草創期では、聖餐は食事と同一視されていたと思われますが、おそらく2世紀には、それらが切り離されていきました。ともかく、聖餐は礼拝の中心に、最初はあったはずでした。食事ないし聖餐を大切にするという意味は、もちろん最後の晩餐の場面に描かれているのは当然ですが、復活のイエスが食事をする場面にも表れています。また、福音書の各場面を思い起こしてみましょう。イエスは、幾度も宴会の話をしていないでしょうか。盛大な宴会を催そうとする話、そのとき婚礼の話も混じる場合がありますし、王位に就くなどというのもありますが、宴会や祝宴といった神の国のイメージは度々提示されます。大宴会の譬えが神の国の様子を描いているのは間違いありません。放蕩息子の話でも宴会が実は重要な場面設定になっていたことは間違いありません。およそ神の国とはどういうところかということをイエスが伝えるとき、紛れもなく、宴会を語っているのです。終末の時に宴会に人が集まるなどとも言います。神の国への招待とは、宴会への招待にほかならないとしか思えない書き方をしてあるところに、たくさん出会うはずです。だからまた、イエスは、罪人と呼ばれていた人々と、食事を共にしたわけです。そこが神の支配する様子なのである、と。
 
このことは、実は旧約聖書を通じても言えることです。エジプトでヨセフが催した、ベニヤミンへの祝福の宴会を初め、ダビデが契約の箱を取り戻したときも、新たな神殿建設のときにも、いけにえを屠り喜び祝っているのは、祝宴にほかなりません。預言者も、「その日」、祝宴が催される様子を描いていますし、黙示録も、小羊の婚宴に招かれることで落ち着きます。箴言でさえ、朗らかな心には毎日が宴会である、と宴会の喜びを告げています。
 
最初の時期の教会の人々が、食事を大切に集っていたこと、それがいまなお聖餐という形で伝えられ、守られていることを思います。当初は少なくとも、食事こそ、礼拝の中心であったのです。そこで今なお聖餐式のことを「パン裂き」と呼ぶ教会すらあるそうです。また、ギリシア語からすると、聖餐を表す語は、本来「感謝」を表す語でした。むしろ「感謝」という語を、私たちは「聖餐」と呼んで特殊扱いしていると言ったほうが正確でしょう。こうすると、礼拝の中心に感謝がある、というのはまことに理に適った説明となるわけです。
 
教会で「カフェ」を営むところも増えてきました。また「こども食堂」のように、食事の席を設けて、地域に仕える動きも出てきました。ホームレスの方々のために食事を中心とした提供のために奔走するところもあります。私たちの地上のいのちをつなぐ「食事」が、いかに大切なことであるかを思うとき、イエスが神の国でのいのちのためにもまた、「食事」を重んじたことも理解できます。なにも、儀式としての「聖餐」の理論というものが最重要というわけではありません。しかし、儀式として二千年来続いてきたというからには、それだけの根拠や信仰があったからこそであるに違いありません。食事を共にするという仲間意識については、旧約新約を問わずに多く描かれています。ペトロが、汚れた食物規定を脱することで異邦人に宣教が開かれたように、主にある者が食事を共にするという場、そこにこそ、主が共におられる、そして礼拝となっている、そうした見方もまた、心得ておこうではありませんか。イエスがあれほど、宴会、宴会、と告げていたのですから。
 
よく教会の壁に、特にその食事をするホールに、こんな言葉の木彫りの板が掲げられていることがあります。有名な言葉です。終わりにご紹介しておきます。
 
「キリストはわが家の主、食卓の見えざる賓客、あらゆる会話の、沈黙せる傾聴者」
"Christ is the Head of this house. The Unseen Guest at every meal. The Silent Listner to every conversation."


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