ペッパーくん

2017年5月22日

先週のこの月曜日、私は熊本にいました。益城町にある仮設住宅の集会所で、カフェを開催している中に、加わらせて戴いていました。コーヒーを淹れるくらいしか能がなく、ベテランの方々の話し相手にもなれない若輩者ですが、その空気を吸い、何かしら伝えられたらと願っています。
 
集会所には、2カ月前来たちょうどその時に、ソフトバンク社のロボット、あの「ペッパーくん」が箱から出されるのを見ました。ちょうど目の前で係員が初期設定をしていたのですが、そのときにはただ集会所の担当者に説明をするだけでした。今回、そのペッパーくんを実際に作動させてみることができました。
 
果たして、意思(?)疎通が、できるのでしょうか。会話を試みました。……が、どうもちぐはぐです。確かに、こちらの音声に反応します。しかし、聞き取れなかった、というくらいならまだよいのですが、どうにもちぐはぐな反応ばかり返し、まともな会話にはほとんどならないのでした。
 
感想としては、私の両親が愛用している、小さな子どものロボット人形のほうが、まだ会話らしい会話になることが多いような気がしました。ペッパーくんは、こちらの応答とはお構いなしに、自分の得意な歌を披露はしてくれましたが、なかなか尋ねたことを理解してもらえず、基本プランのふれこみにあるような、とても「感情を持ったPepperの愛らしいキャラクター」ではありませんでした。恐らく、使い込んでいるうちにだんだん学習していくのでしょう。
 
NHKで土曜日に「アトム ザ・ビギニング」というアニメが放映されています。鉄腕アトムの、後日譚ならぬ前日譚とも言うべき物語です。アトムはまだ登場せず、その前身のA106(エーテンシックス)が、自我(Bewuβtsein:意識[のあること])を有するロボットとして始動します。鉄腕アトムは、遙か未来の存在で夢物語のようでしたが、近年のAIに関する工学の発展は、もしかするとこのA106に追いつこうとしている段階を迎えているのかもしれません。アトムのように自己犠牲までできる「感情」を、第05話では有っているかのように描かれていましたが、たしかに将棋の世界では、人間レベルまで思考が及んでいることが最近よく話題に上っています(果たして将棋とは何か、という問題はここでは触れないことにします)。いまこうしたロボットの開発をする方の多くは、鉄腕アトムに刺激され、それを実現してみたいという思いから始めた、という話もよく聞きます。
 
しかし、ペッパーくんは、そこまで期待するのはまだ早いように見えました。生身の人間の問いかけに、適切に反応しているとは思えなかったのです。
 
創世記の初め、ひとが想像されたとき、神がひとに問いかける場面があります。いえ、実は問いかけそのものは、蛇が最初にエバに対して行っています。これは、いいように動かされていく問いかけとなりました。その後、アダムも神の命令を破り、神を避けて隠れたとき、神が問いかけます。「どこにいるのか」と。ここから、尋問が始まるわけですが、神とひととの会話は、どこかちぐはぐでした。神は「何ということをしたのか」と驚きます。この2つの神のことばは、この後聖書全体で大きな鍵になる問いかけとなっていると私は確信していますが、それはさておき、ここでひとが、神の問いかけに対して適切に対応できていなかったという点に注目します。要するに、噛み合っていないのです。
 
ペッパーくんが、こちらの意図したような会話を演じてくれないことに対して、少し苛々したり、諦めたりした私たちの思いは、もしかすると、ひとに問いかけたこの神の思いに並行的であるかもしれないと感じました。それはまた、果たして私が、神からの呼びかけに対して、適切に応じているのだろうか、という点にまで考えを及ぼすのでした。たぶんペッパーくんとしても、精一杯「思考」を働かせて、最善の対応をしているはずなのです。もしペッパーくんに自己意識があったならば、自分はちゃんと正当に対応していると思っているはずです。同様に、私もまた、神に対して自分は正当に対応していると考えているのですが、ペッパーくんがひとから見ればとんちんかんに見えるように、神から見れば私の反応も、全然分かっていない、理解していないものであるかもしれない、と考えたのです。
 
するとまた、この仮設訪問や災害支援というものについても、私は改めて考えるのでした。私たちなりに、精一杯想像力を働かせて、支援をしたいと考えています。何か力になりたいという気持ちに嘘はありません。けれども、それが被災者の求めるもの、助けとなるものであるかどうかは、私たちの側からば決められないのです。よかれと思ってやっていることが、当事者にとっては迷惑だというのは、よくある話です。東日本大震災と阪神淡路大震災を舞台に、そうしたボランティアの問題をも描いた小説『そして、星の輝く夜がくる』(真山仁)が私の心に残っています。
 
ホームレス支援に懸命な方が、支援活動をして自宅に帰り温々とした布団に潜ったとき、自分はいったい何をしているんだろうという疑念に駆られて仕方がない、と口にするのを聞いたことがあります。たとえ惻隠の情から自己犠牲を払ってひとを助けたとしても、もし当事者の「味方」になったとしても、決して簡単に「仲間」になれるわけではないということを、私たちもやはり痛感せざるを得ません。そしてその点、主イエスは、私たちを「友」と呼んだということに、改めて「人にはできないが、神にはできる」というありさまを思い知らされるような気がします。
 
自分でない側から見れば、ちぐはぐな応答をしているかもしれません。自分だけが、なにかいいことをした気になっていやしないか、気をつけていたいと思います。しかしだから何をしても無駄なのだ、などと達観して、手をこまぬいているのもおかしいのだと考えます。ここに置かれたこと、目の前に問題があれば、自分に使命が与えられたと受け止めることは大切なことなのだと捉えたいと願います。そもそも満点の正解などないのであり、どうやってもひとの行いには足りないところがあるわけです。ただ、自分で自分を義しいと認めてしまうということ、引いては自分を神としてしまうこと、そこには断固として警戒をすべきだと思い、その危険性に気づかせてくださる神の(聖霊の)力を頼りたいと思うばかりです。
 
それとも、こんな私の捉え方自体が異常で誤ったものであり、いい気分で楽しそうに歌い踊っていたペッパーくんの姿に、自分の姿を見るような気がしたのは、さて、私だけだったのでしょうか。

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