◆アカウミガメが来なくなった 2004年9月8日の西日本新聞の記事。津屋崎町で、今年はウミガメの産卵が見られなくなったという。 アカウミガメの産卵というのは、絶滅が危惧されていることもあり、めったに見られるものではない。それが、こんな大都市の隣でたくさん産卵したというので、去年の津屋崎町はひときわ有名になった。 広告機構のCMで知られるようになった結果、多くの人がやってきた。ウミガメの産卵を見たい野次馬も当然いたはずだ。砂浜で夜騒ぐ若者が現れたり、ウミガメ産卵ツアーまで業者が考えたという。 こうなると、ウミガメのほうでも、用心して産むためにやって来られなくなるのは、誰の目にも明らかである。まったく、自分勝手な人間もいるものだ――というふうな批評で終わるような、「つぶやきのカ・ケ・ラ」ではない。 当然、西日本新聞でも、違う切り口でちゃんと紹介してくれている。 それは、産卵地の清掃をしようというボランティアや観光客のことである。例年は、津屋崎町の人々がのべ200人ほど清掃を心がけていただけだが、今年は、その十倍もの人が清掃に訪れたというのだ。やってきたのは、学校・企業・市民団体など30もの団体。 昨年は312匹が孵化したといのに、今年はゼロ。その原因は、騒いだ若者ばかりではない。海洋生物学の先生によると、ウミガメは、昼間のうちに、産卵場所を探しているというのだ。だから、昼間にうようよと清掃する人間が集まっている場所へは、夜になっても行こうとしないのだという。 見ているだけの自分も、そこに存在する。観測者が対象に影響を与えているために観測データは決定できない、という、シュレーディンガーによって得られる知恵は、物理学だけのものではなかった。観察者が対象に影響を与えている。観察者は無味無臭の天使なのではない。もちろん、神の視点なのではない。 そればかりか、たとい善意から発したものであるにせよ、清掃ボランティアが、カメを寄せつけなくしたという事実。善かれと思ってやったことが、すべて称賛されるものではないという見本でもあるわけだ。 |