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『予言者の研究』

ホンとの本

『予言者の研究』
浅野順一
講談社学術文庫
\1100+
2023.4.

 19世紀最後の年に生まれ、1981年に世を去った、牧会者であり、偉大な旧約聖書研究者である。いまなお慕う人が多い。
 まず題名にある「予言者」が目を惹く。いまキリスト教の本で、このように書く人は殆どいない。「預言者」が基本である。これは、未来を予言するのではなくて、神の言葉を受けて、つまり神の言葉を預かって、それを人々に伝える役割を果たした者たちを意味するからである。未来を占うようなことをするわけではない。もちろん、旧約聖書の預言者たちは、時に未来のことを告げることもあった。だが、言い当てたその多くのことは、未来のそれを知る者が、当時過去であった預言者の口から出されたこととして記した、という事情だと考えられている。ところが、著者は、これを元々旧字体で「豫言者」と書いていたのである。「豫」は「予」の旧字体である。この件については、巻末の「解題」に詳しい。要するに、西欧語では「予言者」にあたる語で表現されているというのである。
 とはいえ、見慣れた「預言者」ではないので、読者として私は、読むにあたり心理的抵抗があったのは事実である。
 だが、その文章にこもる熱意というのはどうであろう。確かに学者であり、綿密な証拠や調査と共に、学問的な叙述であるには違いないのだが、たぎるような熱い語りは、通例の研究者からは伝わってこないほどの力をもっていた。
 予言者と言いながら、扱う人はカタログのように多岐にわたっているわけではない。まずエリヤ。この言葉を、ただ聖書の表面上の解釈というに留まらず、当時の文化を背景にたっぷりと説明す。特に、政治的背景については鋭い眼光を示す。やけにそうだなと思っていたら、後で分かった。太平洋戦争へ進む時代を経験しているからである。日本が、日本の政治が、軍国主義に染まっていき、これは理解の仕方ではあるだろうが、判断を誤り、悲壮な局面に暴走していってしまった。それに対する憤りもあっただろうし、また自身が止められなかった思いもあったのではないかと私は勝手に想像している。旧約聖書から学んでいれば、こんなことにはならなかった、そうした思いがなければ、これだけの力漲る文章が書けやしない、と私だったら思う。
 エリヤから、アモス。予言者としての嚆矢を飾る人物は欠かせまい。自らの苦悩を知る中で愛を説いたホセアをも描き、イザヤ、ミカ、そしてエレミヤに至る。それぞれの予言の特色を明確に描き、エレミヤという特殊な人材を以て最後を飾ったのは、このエレミヤに最も寄り添っていったからではないかと思われる。
 私もエレミヤが好きだ。時間的順序がぐちゃぐちゃなエレミヤ書を整理して、エレミヤの生涯を一本線で描くことを試みたことがある。自分という人間を前面に現し、神と対峙したという点では、エレミヤは非常に近代的な人間像に近いのではないかと思われる。その意味で私にも分かりやすい、近づきやすいと思えたのかもしれない。
 その後、イザヤ書の「主の僕」について細かく検討している。それはもちろん、新約聖書のイエス・キリストへとつないでいくものだと当然考えられるが、そこにはひとつの飛躍があることに気をつけなければならない。つまり、著者はしっかりと旧約の背景を踏みしめて、徹底的に旧約の歴史と文化に留まるのである。それでいて、新約の時代にイエスがこれを受け止めていった事実もまた、適切に見出してゆく。イザヤはイザヤであり、イエスはイエスなのである。そして私たちは、そのイエスが寄り添っていることを身に覚えつつ、旧約にも新約にも、向き合っていくのである。

 付録として、「旧約研究の方法論について」と「政治の世界における予言者の論理と倫理」とが本書を結んでいる。イエスが、ヘレニズム文化には全く関与していないという事実がありながら、ギリシア思想で聖書を解して展開してきた西洋の姿勢には、かなり批判的であるように見えた。それほどに、旧約という文化を大切にしているし、またそれは当然そうであろう、とも思われる。そして、聖書を真に受け止めていくためには、信仰が欠かせないという胸の内をも明らかしてゆく。政治的なものについては先に触れたが、「日本の教会は今まで聖書の教えに果たして忠実であったかどうか、反省されてしかるべきであろう」という辺りは、その遠慮がちな言い方に甘えず、私たちは真摯に問い続けなければならないはずである。日本の政治の堕落、日本人の腐敗というものを、内村鑑三が見ていたことに触れるとき、著者も正にそうであるに違いない、と感ずる。そのために、神学が活かされていくのでなければならないのである。
 ひとを生かし、輝かせるために聖書の言葉がある、と掲げる私の思いも、本書では踏まえられたいた。と同時に、私がまだ強く言えない、社会的な方面への聖書の生かされ方、さらに言えばキリスト者と教会のあり方というものが、著者の魂から、私たちの魂へと伝わってくる著作である。
 本書の多くは、本来1930年頃に書かれたものである。その後の神学の展開で、ここに書かれていることがそのまま認められないような点は幾らもある。「解題」でもそれが挙げられている。だが、日本の軍事的政治がまだ社会の中心であった時代に、聖書を基準に生きる者は、このような声を発することができたということは、キリストにある者としては誇らしく思う。いまの私たちは、私は、どうであろうか。




Takapan
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