『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』
ブレイディみかこ
新潮社
\1350+
2019.6.
2019年「本屋大賞」のノンフィクション本大賞に輝いた本であるが、確かに売り出したときの書店の扱いが違っていた。嫌でも目についたのである。しかし私がこのような本まで買うようにすると、お金も置き場もいくらあっても足りないので、大変申し訳ないのだが、文学作品と呼べるようなものは、極力図書館から借りて読むようにしている。つまり私の読むようなものは大抵図書館では取り扱わないし、自分で線を引きたいならば借りて読むというわけにはゆかなくなるということだ。
そのうち図書館から、と思っていたら、テレビで紹介されていた。その紹介のされ方がとても良かったので、これは見た人が図書館に殺到するのではないかと恐れた。調べると、予約待ちが入っている。しかし二人目というからラッキーであった。予約して、待つことにした。
これは小説、と呼ぶのは難しいかと思う。実録ものであり、エッセイを連ねたようなものである。新潮社の無料誌『波』に連載されていたものだという。いや、正確にいうと、その後も連載されている。つまりこの本は、いわば未完なのだ。しかし、このタイトルからくるストーリーとしては、ここでまとめた分でひとつ完結していると考えることもできる。なかなかよいまとまりなのである。
イギリスに住むみかこさんには息子がいる。小学校のときにはカトリックのちょっといい学校にいた。だが中学に進むとき、どうしたことか「元・底辺中学校」に入ることになる。そこで出会ういろいろな子や親を通して、イギリスの教育と社会の実態を体験しつつ思うところを描くというのが、この本の、すべてと言えばすべてである。
観光ガイドからは分かるはずもなく、報道機関を通しての情報からもこんなことは全く分からない。そこに暮らしてみて、そこで学校と関わってみて、初めて知ることがここにある。イギリスはこういう社会なのだということがよく分かる。そして、私などは日本にいるに過ぎないのに、まるでイギリスに住んでいて、そして同じ問題を経験しているような気に、だんだんなってくるから不思議だ。そういう点では、著者の腕がいいということなのだろう。個人的な体験を、普遍的なものにつないでいるからである。それでも抽象的になることはない。また、勧善懲悪でもないし、建前で教育しているわけでもない。人種差別もあれば性的な逸脱もある。教育という点からすればどうにもよろしくないような学校であるのに、みんなそれなりに生き生きと暮らしている。しかしまた、貧困が絡んだり、いじめが起こったりもする。
本書のタイトルは、その息子が受けた差別的な扱いから、自ら記していたフレーズである。それをみかこさんが見て、勝手に連載のタイトルにしたものだから、息子はそれを知り、著作料を払えなどと言ってみたりもする。なかなかいい親子だ。
エッセイ風であるので、時折ググッと心を掴む回がある。そうした魅力が随所にあるのだが、やはり私がしみじみいいと思ったのは、「誰かの靴を履いてみること」であろう。息子が、期末試験の問題で「empathyとは何か」などが出題され、簡単だったと言い、満点を喜ぶ。彼の書いた答えは「自分で誰かの靴を履いてみること」だったという。これは英語の定型表現だから、日本で言えば諺のようなものとして、珍しい言葉ではないという。しかし、この問いに対する絶妙な回答となっていることを、みかこさんは感心する。私たちは、sympathyならよく聞く。同情とか共感とかいい、心を寄せることとして用いることがある。私たちがよく、被災者や不幸な目に遭った人に「心を寄せる」などというのが大抵そうだ。しかし、これは自然に抱く感情でもあるとここには記す。感情だから、それを覚えるのに努力などは必要ない。しかし、empathyは違うという。自分と違うタイプの人、特にかわいそうだと思えない立場の人が何を考えているのだろうかと想像する能力のことであるという。知的な作業なのである。イギリスにおける社会問題に関わる中でこの言葉を学ぶということの意義を、本書では漏らしている。やがていろいろ出来事があって、「善意」というものについて、このempathyと繋がっている気がすることを知る。共感ならば善意は必要ない。ひとふんばり努力させる力に、善意というものを見出すのであった。
そう。教会でよく、善意からくる支援をするというが、それはsympathyではあっても、empathyではないような気がしてならないのだ。このことはもうこれ以上どろどろ言わないが、ぜひお考え戴きたい。「心寄り添う」という情緒的な表現をして、善行をしている気分になっていることが、なんとお気楽なものであるか、噛みしめるような思いがするのである。
この12歳ほどの少年と母親の関係、実に知的で、また逞しい。わが家にも少し似た部分はあるような気がするが、あるいはだからこそ、私はここに共感できるのかもしれない。それと、福岡に実家のあるみかこさんと、学校で直接会ってはいないものの、若干ニアミスしているとも言える私は、うんうん、こんな人が現れるかもしれない、と納得できてしまうところも、その親近感の理由の一つなのかもしれない。これはきっと、続編が出て来るだろう。イギリス社会における日本人の眼差しを通して、思った以上に普遍的な世界が広がってくるものと期待できるからである。