『わたしたち手で話します』
フランツ=ヨーゼフ・ファイニク
フェレーナ・バルハウス絵
ささきたづこ訳
あかね書房
\1400+
2006.1.
もちろん手話の話である。大判の絵本で、淡い色彩が、それぞれの頁に様々な形で展開する。くっきりとした人物を描くかと思えば、薄い背景にパステルのライン、切り絵も混じるし、象徴的なデザインも現れる。絵に沿って文字が特別に配置されることがあり、単色になったり、カラフルになったりもする。双六の盤のように展開が説明されることもある。どれひとつとして、同じ調子の頁がない。それは、一つひとつの営みが、同じことの繰り返しではないことを伝えようとしているのかもしれない。
冒頭の文が私の心を掴まえる。「リーザは、小さいころ、おかあさんって魔法使いなのかな、と思っていました。」そのわけは、続く文で判明する。「だつて、おかあさんがが玄関のドアをあけると、ちゃんと、だれかが外にいるのです。」
それは、音の聞こえる者にとっては、当たり前のことである。だが、リーザにとっては、それは魔法なのだ。
このことを読者あるいは聞かせられた子どもの心に、深く刻み込まれるはずである。そして、物語の終わりまで、それを忘れないでいることが大切である。
物語については、いつもながら、筋道を明かすことはしない。
ただ、おおまかなところはお知らせしよう。
リーザは広場で子どもたちが遊んでいるのを見る。聞こえないんだ、ということは子どもたちに分かった。そこに現れた、トーマスという少年。この少年は手話が使えるため、リーザとコミュニケーションがとれる。トーマスはコーダなのだ。
そうしてトーマスを介して、そこにいた子どもたちには関心が現れる。皆がリーザを取り囲む。リーザを理解したいとの思で、皆がひとつになってゆく。
トラブルはない。めでたしめでたしである。
しかし、耳が聞こえないというのはどういうことか、この絵本で、人は知るだろう。どんな不便があるのか、どのようにして生活しているのか、聴者には知られないこと、だがろう者には当たり前のことが、紹介されてゆくのだ。
小さい声で話すときはどうするのか。マルティンが訊く。手を小さく動かすの。リーザが手話で答える。その手話が皆に伝わったのは間違いない。
リーザの心が開かれる様子も見える。「月や星や雪も、音がする?」という疑問を呈するリーザにも、私はハッとさせられる。それに対してトーマスが丁寧に答えるところも、ステキだ。
耳の聞こえない人には、うしろから手でさわってはいけないんだ、とトーマスが皆に説明する。だから、相手のうしろからまわって前に行き、知らせるということをして見せる。
ドイツの手話の絵があるのも興味深いし、見返しには、国際指文字でアルファベットのイラストが並んでいる。日本語の指文字も、これを参考にして考案された。大阪市立聾唖学校の高橋潔が、大曽根源助と共につくったものである。単語の手話の言葉を知らなくても、指文字があれば、最低限のコミュニケーションができるとなれば、このイラストは役立つ可能性を秘めている。最近では日本語でも、若い人は指文字を多用する傾向があるという。手話教室では指文字から入ることは恐らく殆どないと思われるが、私は指文字をまず徹底したらいいのではないか、と考えている。小さな子どもも、ひらがなを一文字ずつ順に教わっていくのだから、手話も指文字からいくと、何かしらコミュニケーションがとれるので、実際的ではないかと思うのだが。
ともかく、絵本は物語の内容も温かくてよいものだし、先に挙げたように、絵のバラエティというものが特筆すべきだと思う。
広場で、バンドの演奏が行われていた。リーザには音楽がわからないんだろうね、とユーリアが気の毒そうにしていた。物語では、友だち一人ひとりに名前があり、個性をもった人物として登場する。これもまた、一人ひとりが大切にされるべきであるという、作者のメッセージではないかと私は受け止めている。そしてこの音楽についても、リーザは「音楽は大すきよ」と答え、音を感じる方法を皆に教える。皆もそれを体験して楽しくなる。ここの絵が、またステキなのだ。
私も偶然見かけた本であった。あまり宣伝されていない本だというように感じた。だから、私はここで宣伝しよう。私たちも、この子どもたちの一人になろうではないか。一人ひとり名前があって、大切にされている人間として。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド