本

『地の糧』

ホンとの本

『地の糧』
ジッド
今日出海訳
新潮文庫
\550+
1952.3.

 ジッドというと、信仰に厳しく禁欲的な物語が頭に浮かぶかもしれない。だが、それを「信仰」と呼ぶことには批判的な意見が多い。日本ではジッドは人気があると思われるが、その日本人が、信仰ということについてあまりよく分かっていないために、ジッドが信仰的な作家だ、というふうに見られているのかもしれない、というのだ。
 私はここで文学論を立てるほどの知識も能力もない。今回手にしたのは、『地の糧』である。これが2023年、ヨルシカとのコラボによって新しい表紙として出たことで、異例のヒットを飛ばしているのだという。私はそのことを全く知らずに、図書館で手にしただけである。
 ジッドの中で、これは読んだことがなかった。薄い本だし、気軽に読めそうだ。  やはり一番本書で有名なのは、「君はすっかり読んでしまったら、この本を捨ててくれ給え――そして外へ出給え」という、最初の頁であろう。当然、「書を捨てよ町に出よう」という寺山修司の言葉が頭に浮かんでくる。日本中で若者の心を捉えたこの言葉は、ジッドに由来するのだろうか。
 この言葉は、ナタナエルに宛てられている。謎の人物である。本書の文章のすべてが、彼に向けて綴られているようである。その文章というのが何を書いているのか。全体が8つの書と讃歌とからできている。それらは実に自由に語られている。まるで日記のようである。しかしあまりに詩的で、流れるような、また唐突なフレーズや展開で、読者を戸惑わせる。それがまたよいのだ、というファンも多いのだろう。感覚的で、極めて自由で、そして非倫理的で……。
 ジッド自身は、フランスでは少数派のプロテスタントの葉池に生まれ、しかし信仰生活に反発し、若くして放蕩を尽くす。否、もう幼くして早熟で不品行のかどで目をつけられていたのだとも言われる。娼婦との付き合いは本書の中でも反映されているし、同性愛も甚だしかったらしい。するとこのナタナエルという宛先も、その道の相手を想定しているのかも知れない。たぶん実在の人物ではなく、ジッドが構想した対象ではないかと推測するのだが。
 文章は、日本語でもこれだけ詩的で繊細な輝きに満ちているのだから、元のフランス語だったらどうなのだろう。これだけの文豪の文章である。本作品は二十代後半、最愛の妻マドレーヌと結婚して間もなく書かれている。よく知られた作品が出てくるまでには、もう少し時間がかかる。若さのままに、また溢れる生のエネルギーをふんだんにぶつけて綴っているということなのだろうか。
 本作品には、最初に書かれて30年後の版に記された「序」があり、本書では最後にそれが掲載されている。過去を振り返り、自己評価をしているようでもあるが、その若気の至りのような作品を、目を細めて見つめているかのようでもある。やっぱり、あの「欲望と本能の讃美」は、輝かしいものであったのだ、と。
 私たちに、そういうものはあるだろうか。私はすっかりそういう自分を消してしまいたいような生き方に変わってしまったけれど、あの若いときの奔放さというものについては、ジッドに共感できる部分が、ないわけではない。無邪気で無知な自分でもあった。ひとの心になど関心がなく、自分本位だけの世界をもっていた。今でもそうだ、と言われたら否定できないが、そのような自分を認識できるほどに、いまの私はあのままの私ではない。ジッドがどうだったかは知らないが、私だったら、私の十代に書いた詩についても、いまの自分が「分かる」と確かに言える。それはやはり、どこか眩しいものなのだ。そっとそこにそのままで輝いているべきではあるし、二度と現実にはならない標本のようなものであるかもしれないけれども、確かにそこにあるものだ。また、無価値だと斬り捨てるべきではないものなのだ。
 ジッドの研究もよろしいが、読者は、読者自身の「地の糧」を見つけ出したらいいと思う。読者にとってのナタナエルがいたらよい。このナタナエルという名は、聖書にも登場する。イエスの弟子の一人である。福音書によってはバルトロマイと記されている人物のことかと推測されている。その名の意味はおよそ「神の賜物」であることははっきりしている。ジッドはもちろん聖書文化の人間である。これを無視して作品の人物名には使うまい。しかし、その謎解きは、研究者や酔狂な方々にお任せすればよい。読者の愉しみは、他の誰にも許さない、自分だけの読書ができるということである。
 ふと、不埒な過去の自分を、顧みては如何だろうか。




Takapan
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