『星の王子さま』
サン=テグジュペリ
内藤濯訳
岩波文庫
\520+
2017.7.
「星の王子さま」の何々、といった本は、これまでにもご紹介してきた。だが、肝腎の『星の王子さま』についてはこれまで触れていなかった。読んだことはあったのに、評としては挙げていない。これはもうひとつの輝く星なのであるから、取り上げることはできない、という意識だったのかもしれない。
それをいま取り上げたからには、何かしら意識が変わったか、特別な思いを懐いたから、ということになるはずである。そう、いま改めて新しい文庫で読んだとき、その訳者の熱意に敬服したからだ。従って、その点にも必ず触れるということを宣言しなければならない。
とはいえ、いま読み直そうと思ったのは、クリスマスの説教で、説教者が、この本を愛していると言い、そのある場面から、福音につながる窓をひとつ開いてくれたからであった。本書の中にキリスト教を見る、という意味ではない。物語の場面から、豊かに神の言葉が開かれていくのを覚えたのだ。それは、その説教者の腕でもある。説教者と神との間の真実な関係に基づくものである。
説教で引用されたのは、キツネとの印象的な出会いの、その後の場面である。砂漠の中で、喉が渇いて死にそうだとぼくが言った後の場面で、王子は、砂漠は美しい、と漏らす。さらに王子は言う。「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ……」
サン=テグジュペリは、どういうことを隠しながらそれぞれの場面を描いたか。それは学究的に探られるというよりも、愛読者がそれぞれに読み解いている模様である。正に文学たるものの醍醐味であって、読者が一人ひとり自分のこととして受け止めるとき、物語は実に様々な様相を見せて人の心に溶けこんでゆく。自分だけの場面があってよいし、自分だけの解釈があってもいい。だから、サン=テグジュペリ自身が何を描こうとしたか、それについて一つに決めつけようなどとしなくてよいだろうと思う。
たとえば、「かんじんなことは、目には見えないんだよ」という言葉だけが時に一人歩きするが、それどころの騒ぎではない。実際、それを言ったのは誰かさえ、読んだことがない人には分からない。言ったのはキツネである。その言葉を王子さまは、繰り返して胸に刻むのである。バラの花のことが心にある王子さまだったが、キツネはさらに「人間っていうものは、このたいせつなことを忘れてるんだよ」と言い、王子さまの運命を方向付けるような役割を果たす。実にこのキツネは、大きな大きな役割を果たすのである。
だが、そればかりではない。私の胸には、「飼いならす」という言葉と、「ひまつぶし」という言葉とが留まった。グサリときたのだ。どういう場面にあるのかは、また本を開いて戴けたら幸いである。が、実はこれまたキツネの言葉なのである。私はどうやら、このキツネにずいぶん共感しているらしい。登場場面も比較的長いが、その告げるところは、他人事のような気がしないのである。
ところで、訳者について触れるとお約束したので、本書の最後にある「訳者あとがき」にも目を移そう。それは、ただ解説をしているというのではなく、まるで大好きな映画スターのことを嬉しそうに話し続けるファンのようなムードが漂うものだった。「かつて子供だったことを忘れずにいることなはいくらもいない」という言葉を引きながら、読者に幾度も問いかけ、物語を受け止める者のあり方について核心に迫る勢いを示すのである。そこにはまた、井戸を隠している砂漠の件も現れる。
これを記した5年後に、訳者は亡くなる。その四半世紀後、息子の内藤初穂さんが、本書に載せられている「『星の王子さま』備忘録」という文章を認めている。岩波書店の雑誌「図書」に掲載されていたものである。日本で最初にこの物語を「星の王子さま」と翻訳した父の思いを熱く語っている。そう、よく知られている通り、原題をそのまま訳せば「小さな王子」としか訳せないのである。そこでは、その言葉を軽く扱う世間に対して、憤りを表していた父親の姿を私たちに伝えてくれている。70歳にて訳したこの物語に、父親はどんなに熱い思いを懐いていたか、私たちも深く肯くような紹介がなされている。
この方の名前が「初穂」ということで、私はもしやと思い調べたら、案の定内藤濯さんはキリスト者であった。
愛すべき訳書に、またひとつ出会った。