『死刑について』
平野啓一郎
岩波書店
\1200+
2022.6.
話題になっていた。真っ白な表紙のデザインがいい。真っ白な心で頁を開くとよいだろう。死刑については一般に、賛成と反対と意見がわりとはっきりしているように見えるが、どちらの考えの人も、まずはよく聞いてみよう、という意味だ。
本書では、賛成の立場を「存置派」、反対の立場を「廃止派」と称しているので、私もそれに倣って記すことにする。
2019年開催の、大阪弁護士会の講演会の記録をもとに、2021年開催の、日本弁護士連合会主催のシンポジウムでの発言等を加えて再構成し、さらに加筆・修正したものである、ということが目次と本文の間に示されている。従ってこれは、書いたものというよりも、語ったものである。それは、同じことを繰り返し、大切なことは、そこが大切だと伝わるようにはっきりと強調する。熱心に説明を施すところが、やはり伝えたいところだ。そういう語りの言葉として受け止めていくとよいのだろう。
余談だが、平野啓一郎氏の講演は聴いたことがある。Zoomではあるが、大学での講演に参加した。文章で身を立てている人だけあって、言葉に対する気遣いは伝わってくるし、話の流れも、的確にプロットされていた。だから、本書でも、筋道については信頼が置けるだろうと思う。その波に棹さして舟を進めよう。
著者は、北九州出身で、京都大学で学んだ。それはよく知っていたが、そうか、法学部だったのだ。本人は謙遜して、法学の理解は拙いものだなどと言っているが、決してそんなことはないだろう。ただ、文学畑で人生の半分以上を暮らしてきたとなると、弁護士会でこのような法的な話をするというのは、確かに緊張するだろう。
本の一般的な紹介でもよく触れられているが、著者は元々死刑存置派であった。つまり、死刑はあってよいという立場である。それは素朴な感情に由来する部分もあったことだろう。被害者の心を思うならば、大切な人を殺されて、その犯人に死刑を望むというのは、人間として、当然あってよい感情であろうと思われるからである。だから、死刑廃止の考えをもつ友人と、学生時代にも論争したことがあるのだとも書いてある。
このことは、いま死刑廃止派の立場にはっきり立つようになってからも、存置派の思いは「分かる」のだ、という背景につながる。あるいはまた、自分の中に、依然として死刑はやむをえないという心情が、まだどこかに残っているのではないか、という気もするという。ただ、より理性を前面に出すならば、廃止派の立場により言動を起こすという旗を、いまはっきりさせているのだ、という具合であるのかもしれない。そこは私の想像であるから、本当に著者がどうであるのかは、著者にお尋ね戴くか、本書を読んで各自お考えになればよいと思う。
講演会での語りを基にしているから、できるだけ具体的に、実例をも交えながら、繰り返し持ち出してくる。犯罪被害者家族の発言や記事なども、十分用いる。その心情が、想像ではあるにしても、人間として感じられるように思うから、なおさら、それが尊いものであることは理解している。そのためには、文学をも用いる。西洋文学では、加害者の立場を描くものが多いという。しかし平野氏は、その西洋文学の作品においても、その被害者はどうだろうか、ということをよく考えたという。カミュの『異邦人』の主人公に殺されたアラブ人の家族はどうなったのか、を考えてみたくなるのだという。もちろんカミュはそんなことには関心がない。やがて平野氏は、自らの『決壊』という作品において、この問題に向き合うことになる。犯罪被害者の視点で描く作品を執筆したとき、世界が違って見えてきたのだというのである。死刑制度に嫌気がさしてきた、と本人は述べている。
本当に、その犯罪は、その犯人個人の問題であるのか。ひとつの要点は、この視点にあるように思われる。つまり「自己責任」に帰してしまうべきなのか、ということである。それよりも、社会的な背景というものに目を向ける必要があるのではないか、という問いかけは、私たちも無視はできない。では社会が悪い、もちろん、政治が悪い、という極論に走るのも、またおかしい。しかし、私はその視点は、あって然るべきだろうと思う。ただ、具体的な著者の議論については、本書で直に触れて戴きたい。
海外での死刑制度の有無については、巻末に資料として掲載されているが、本文中でもその議論はある。死刑廃止は、20世紀初めから各地で始まっていたが、その導入については、一般国民の支持が高まった故に、というわけではなさそうである。むしろ、政治主導で、国民の過半数が存置派であった中で、死刑廃止の法が成立した後に、国民は受け容れていった、ということが多いそうである。だから、日本でもし世論を問うたところ死刑存置派が多かったので、存置する、という論理がすべてではない、と示したかったのではないかと思われる。ただ、被害者を尊重すること、そこに光を当てなければならない、というのは著者の願いであり、どこか祈りでもある。被害者に対する尊重をどれだけできるか、それが死刑廃止の実現をもたらす最大の鍵であるのかもしれない。政治がさあ走れ、というわけではない。
また、人権教育がよくなかったという視点も、必要であると思う。このように、多彩な視点を提供する、というのが、文学者なり哲学者なりの、なしうる大きな仕事であるだろうと私は考える。なかなか気づかれないところ、人々が見落としている視点、それを拾い上げたり、提供したりする。この教育という方向性は、重要である。いま子どもたちや若者は、命を大切に、というスローガンの中で育てられている。建前であれ、どうであれ、そしていじめをするときに自分が命を軽んじているという点に気づかないような有様があるのであれ、彼らは平和を好む。ネットで言葉の暴力を平気で言い放つにしても、だ。むしろ、私はいい大人のほうが、悪質な暴力性を帯びていると思う。しかし若い世代は、たとえば福祉教育の故に、手話や点字をよく理解している。年配の人のほうが、偏見は強い。子どもたちは、障害者にどう接すればよいか、学んで知っているのだ。これは確かに教育の故である。人権教育は、今後変化する可能性は高いと私は見ている。楽観はしないが、確かに何かが違ってきていると思うのだ。
最後のほうでは、紙数の関係が、様々な視点が矢継ぎ早に繰り出される。あとは読者が議論を発展させればよい。著者の誠実な眼差しは、十分伝わってくる。人に「優しい」社会を目指したい、という収束は、私には少しぼやけて、緩い結末になってしまったような気がするが、それはそれでよいだろう。
死刑は、国家による殺人である。著者は、このことだけは譲らない。それもそれでよい。死刑制度についての議論については、もちろんそこを巡っての話でよい。だが、本書の主旨とは無関係であると言われようと、私はもう少し踏み込んで考えなければならないことがあると思う。国家による殺人とくれば、戦争が、まさにそれなのである。死刑制度は廃止しよう、国家による殺人はいけない、だが戦争は正義だ、国家による殺人であっても。この論理が通るとは思えない。話の次元が死刑論とは違う。だが、国家による殺人というフレーズが重要な原理の中に現れたことで、私は、その原理を問うことが、きっと必要になってくる、と感じたのである。そのことだけ、付け加えておくことにする。