『ルポ 誰が国語力を殺すのか』
石井光太
文春文庫
\820+
2025.7.
文庫版は2025年発行だが、単行本としては2022年発行である。文春のオンラインの場での原稿が非常に注目されていたため、本となったようである。但し、一部別の文芸誌掲載のものも組み入れられている。
教育関係の作品が目立つが、著者は作家であり、国語学者ではない。そこで、国語そのものの分析をしようとているのではなく、国語を学ぶことの重要性を、社会的な現象から考察し、提言しようとしているものと見てよいだろう。
序章で『ごんぎつね』が読めない小学四年生の実態を明らかにする。「つかみ」として大変巧い。さすがである。ネタばらしのようなことはしたくないが、ある程度はお伝えしよう。小学校の講演会に招かれたときに、その国語の授業を参観することができた。四年生の国語の定番である『ごんぎつね』の授業だった。ごんが、兵十の母親の葬儀を目撃する場面であるが、葬式に集まった人々のために、料理がつくられている。その鍋で煮られているものについて、子どもたちが口々に、母親を煮て食べているのだ、と想像したことを言ったことに、著者はショックを受ける。もちろんふざけているのではない。至って真面目に言うのだ。どうしてそんな理解を平然と言うのか。
これはどういうことか。何故そんな発想が出てくるのか。著者は、子どもたちに欠けているものについて考える。「読解力以前の基礎的な能力」ではないか。あるいはまた「自分の考えを客観視する批判的思考」ではないか(p15)。
確かに現場では、読解力が低下していることは明らかに感じられる。塾でもそうだ。その背景について考察することが、確かに求められている。新井紀子教授の『AI&教科書が読めない子どもたち』(2018)は、社会的に大きな波紋を呼んだ。私もなるほどと思わされることが多かった。それは教育心理学など専門的な研究領域で調査されたデータに基づいたレポートだった。本書は、ルポである。原因探求は推測に留まるが、社会的実態をできるだけ多く集めて示すところに味がある。それぞれの探究の意味を理解しながら、私たちは現象を見てゆきたいし、対策を案じるとよい。
ルポであるから、文部科学省の方針そのものを批判するまでのことはしない。そこで掲げられている「国語力」というものを、「感じる力」「想像する力」「考える力」「表す力」という4つの中核からなる能力として、考察のスタートとする(p24)。
そこでまず、学校の中での語彙の少ない言語生活に注目する。そこから、事件性のある問題、たとえば校内暴力や恐喝事件その他のケースを取り上げ、家庭で言葉が育まれていないかなり不幸な実例も示しながら、言語生活が脅かされている現状が、そうした事態を招いているのではないか、という道に読者を誘う。
次に、学校教育に着目する。いわゆる「ゆとり教育」がもたらしたものの意味を考える。政策的にも、行き当たりばったりのようなところが背後にあるのではないか、というのは行政批判でもあるが、社会自体が変化しており、その先がどうなるのか、については誰も明確に知ることはないのだから、手探りでひとまず腹を決めて取り組むよりほかない事情はもちろん分かっている。しかし、楽観的な未来予想でよいのかどうか、警鐘を鳴らすことも必要なのである。著者はそのために、現場の教室はもちろんのこと、文部科学省にも正式に掛け合って、その建前と思惑とをかなり深く追究している。この行動力は、ルポライターの命であるのかもしれない。
言葉に問題があるとすると、いわゆる「ネット」がその槍玉に挙がることが多い。背後に、単純できつい言葉が飛び交う実態のひとつとして、インスタいじめ事件についてかなり詳しく挙げてきている。読んでいて痛々しくてたまらない。
不登校児の間で何が起こっているか。普遍化することには警戒しなければならないが、これはひとつの実例としてのルポである。教育虐待の実例、親が精神疾患にあるときどうなのか、そういう場で言葉を与えられなかった子どもたちがどんな目に遭うケースがあるのか、これもまた痛々しい物語が呈される。
ゲーム依存者の場合も、いろいろ示唆を受けることが多かったし、犯罪に関わり少年院に入る子どもたちのケースも、言葉の欠落とつながって語られるというふうで、本書全体の筋道がしっかり通るレポートとなっていた。
このように導かれてくると、如何にも救いのない揚げ足取りのように思われるかもしれない。ときに、そうした汚点だけを連ねた本もあるのは確かだ。だが本書は、光の方向をちゃんと提言している。それがすべてではないかもしれないが、実際に言語教育について感動的な結果をもたらしている小学校と中学校で取材したことを、最後の数十頁でたっぷりと語ってくれるのだ。
それはかなり思い切った国語教育である。現状の受験体制の中でどこでも容易にできることではないかもしれない。だが、小学生は体験を通して、中学生はスピーチやディベートを通して、言語生活について著しい成果を見せてくれている、というのである。中学生の書いたレポートの一例は、特に優秀なものであるかもしれないが、私から見ても、これだけのものが書ける中学生がいるということに、感動を覚えた。言葉に関心をもち、自分を見つめ、社会の中での自分の位置をも視野に置き、一定の考察をこなす。
本を読め。漢字を練習しろ。マニュアル的な指示で、国語が身につくわけではない。ではディベートをすればよいのだな、というものでもない。言葉を通して、人と人とがぶつかる教育の場は、強い信念と継続する労力とも必要とする。親がそういうことに関心がない家庭にまで踏み込むことはなかなか難しいのだが、言葉を大切にする、という視点を本書が提言しているとすれば、そのことだけでも、世に広まるとよいと思う。
私は「国語」という呼び名を歓迎はしないが、「言葉」あるいは「言語」に人間の基礎を考えようとする姿勢には、大賛成である。人間は、言葉でのみ思考する。言葉のほかにも気質や心というものがあることは重々承知の上で、しかし形となるものとして「言葉」の大切さは、いくら強調してもしすぎることはないと考えている。その「言葉」を生む心の罪は、それとはまた別の問題だとしておいてよいのではないか、とさしあたり考えるものである。

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