本

『日本霊性論』

ホンとの本

『日本霊性論』
内田樹・釈徹宗
NHK出版新書442
\860+
2014.8.

 東日本大震災が大きな契機となっている。人の心の中に、霊性とでもいうべき大切な領域があるはずだ。それをどう意識するか、どう活かしていくか。心が引き裂かれそうな場面で必要となり得るのだ。
 他方、心が折れるなどと言い、内へ向きがちな若者のあり方も問われている。打たれ弱い世代にも、霊性と呼ぶべきものが待望されているようにも見える。スピリチュアル・ブームは世代を問わず依然として漂っていると思われる。しかしまた、それはかつて言われていたものと少し違ったものであるかもしれない。
 問い直そう。いったい霊性とは何であるのか。そのとき、哲学を営むと共に武道を実践する猛者・内田樹と、浄土真宗の僧侶として学問にも文化にも通じ、また社会的活動も実践している釈徹宗とがタッグを組んだ。前半は内田氏が、後半は釈氏が独自の視点で語っており、最後は二人で振り返るような構成になっている。これは大学などでの三日にわたる講義をそれぞれ掲載する形となっているのだが、特に前半の講義においては、実際はほかにも数人のメンバーが日々ゲストに招かれていたそうである。だから、当日の話としてはさらに長くいろいろあったそうなのだが、本書に収めるのが不可能であったために、お二人だけの世界に留まっている。だがこれだけでも、300頁を超える新書となった。たっぷり味わえる。
 タイトルは、鈴木大拙の名著『日本的霊性』へのリスペクトから付けられたという。そこで大拙の考えにも触れられているが、前半の内田氏は当然、フランス哲学を舞台に西洋哲学とキリスト教の領域を核とすることになる。だが、氏自身の捉え方や感覚というものがあるからこそ、説得力のある話が展開されていることは間違いない。氏は信仰者とは言えない。だが、キリスト教雑誌に長く連載をもっていたこともあり、聖書についてはよくご存じである。だからなのかどうか、聖書の信仰を、教義に基づかない形で実によく考察しているように見える。私も、はっとすることが多々あった。
 もちろん仏教についても後半学ぶことができるし、スピリチュアル全般についてもお二人でよく語っている。宗教の必要性は、私たちの外からくる何かについて備え立つ態度が必要であるからだ、というスタンスを崩すことなく、歴史も現状も踏まえつつ、多彩な考察がなされており、非常に実りのあるものとなっている。
 そうではあるが、私がキリスト教会にもの申したいことに関して鋭い場面をいくつか感じていたので、以降その点についてお話ししてみたいと思う。
 まず、「信仰経験とは、主の教えを理解することではなく、理解もできず共感もできぬ絶対に外部的な、絶対的に他者的なメッセージを「自分宛」だと直感し、……」(p163)というところについてだが、私が感銘を受けたのは、キリスト教の用語を使うことなく、信仰の核心に関わることについて、的を射た表現を与えてくれた点である。私はどうしても、聖書に関する言葉や、神学的な概念や表現を交えなければ、そうした事柄については述べることができなかった。しかし、いわば哲学的に、だが確実に、信仰、特に「福音」についてよい説明がなされているのを見て、どうしても黙っておくことができなくなった。
 また、「雷鳴でも雲の柱でも燃える柴でも、何でもいい、それを「自分宛のメッセージだ」と直感した人が出現したその瞬間に、一神教信仰は生まれた。」(p166)というように、モーセにより確立されたと見た「一神教信仰」の源を、自分の外からの「自分宛」の呼びかけに見出している。聖書的に言うならば、ひとり神の声を聴くこと、のように捉えてもよいだろう。まさに自分に向けて、神が語りかけてくる。聖書の言葉が、他人事ではなく、自分に向けて発された、と自覚した人間において、信仰が成立するというわけである。
 何かしら自分の外から、つまり超越的に、何か呼びかけるものがある。それをひとは感じることがあるとしよう。この講義の最初では、それについての悩みが挙げられていた。その呼びかけるものが、善いものなのか悪いものなのか、どうやって判断したらよいだろう、という悩みであった。それはいまにして思えば、統一協会問題が明らかにした点であるといえよう。見えないものがあり、それがあなたにこのように影響しているよ、という声を、どこまで信頼できるのか。信頼してよいのか、よくないのか。その判定基準はあるのか。それは何か。それについて、内田氏は、いまここで答えを示そうとしているのである。
 さらに、「その切迫するものがまっすぐあなたに向かっているなら、それが発するメッセージがあなた宛のものであるなら、それは受け入れてよい。メッセージがあなた宛でなければ聞き流す。もし「みなさん」というような不特定多数に向かって地引き網で引くよう名「数打ちゃ当たる」的なメッセージが来たとしたら、そんなものは相手にすることはありません。そのようなメッセージは実は発信者がいないからです。不特定多数に対して、誰でもいい誰かに対して、自分が何ものであるかを明かさないで告げられるメッセージは受信者も発信者もいないメッセージです。そのようなメッセージは受け取ってはいけません。」(p168f)とくると、もう拍手を贈りたいくらいの指摘である。
 私は、私の関心事についてこれを適用してしまった。そう、礼拝説教である。私がしきりに「命がない」とか「聖書講演会」とか呼んでいたものが、どうしてそのようであるのかが、誰にでも分かりやすい形で、ここに説明されていたのである。
 命ある説教というのは、説教者自身が、これはあなた宛の言葉だ、と超越的に、つまり神から与えられ、それを受けたところから始まる。そしてそれを、私は神から受けたのだ、という事実を胸に、そのことを会衆に向けて、伝わってほしい、と話すのである。そのとき、言葉遣いはどうか知れないが、「あなた宛なのです」という思いに溢れたメッセージが語られるはずである。
 聴く側も、自分宛だ、と感じたときに、聖霊の出来事が起こる。そう、経験者は思い当たるであろう。礼拝説教が、「これは自分宛のメッセージだ」と思い、心が揺さぶられ、神に取り扱われ、そして神の前に出て、神への信仰を明らかにした、という経験があるであろう。
 まさか、そういう経験もなしに、礼拝説教などをする者がいたら、これはとんでもないことである。「主の体をわきまえないで食べて飲む者は、自分に対する裁きを食べて飲むことになるのです」(コリント一11:29)とは、たんに聖餐のことを言っているのではないだろう。わきまえなしに神の言葉を語っている、などと詐称する者がいたら、これは限りなく重い罪に当たるとは考えられないだろうか。
 だが、立ち止まろう。自分を弁えない者に、私自身がなろうとしているのかもしれない。私はただ恵みを受けて、「あなた宛だ」というものを受けていればよいのかもしれない。そして、それを右から左に流してでも、ひとに――あなたに――指し示すことができたら、それで十分だと言えるのであろう。この方ですよ、この方に救いがありますよ、と指し示す道標になることができたら、至福ではないだろうか。そうありたいと願う。そしてその同じ福音を知っている魂から流れてくるメッセージを受けて、また立ち上がって歩くことができたら、それで十分であるとすべきなのだろう。
 こうした言葉の一つひとつが、お読みくださった「あなた」に何かを伝えることができたら、と祈っている。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります