本

『西田幾多郎』

ホンとの本

『西田幾多郎』
藤田正勝
岩波新書1066
\700+
2007.3.

 西田幾多郎に関する新書は、よく書かれている。2022年にも、岩波新書は同じ新赤版『西田幾多郎の哲学』を出しており、ちくま新書では本書と同じ藤田正勝氏による『西田幾多郎『善の研究』を読む』が出ている。こちらを読むのが筋かと思ったが、同じ著者により15年前に書かれたものを先に読むのもよいのではないか、と考えて、手にした。
 西田幾多郎は、とくにその『善の研究』についてだが、Eテレ「100分de名著」でも取り上げられた(2019年10月)。そのとき、実生活で抱えた悲痛な体験から、人間性をよく伝えられていた。本書は、そちらへ大きく傾きはしないが、それをもまず踏まえながら、西田がその哲学的思索で何をどう悩み、求めようとしたのかについて、よく寄り添うようにして私たちの目の前に明らかにしてくれる。
 西田は、学校経歴からすると、恵まれない青年時代を送った。しかし頭がよかった人ではあったはずである。西洋哲学を修め、また禅をはじめとする日本思想をも大切にし、西洋思想の手の届かないところを、東洋的な捉え方のできる自分がなんとか言葉にして、人類の思想に貢献しようと努めたのだろうか。否、私は推測するに過ぎないが、自分の中で納得できるものを追究しようともがき続けたのではないか、というように感じている。
 その西田について、本書では、その周辺からの迫り方を特徴とする。倉田百三などといって、いまの世代の人たちにどれほど響くものがあるのだろうか。阿部次郎を含めて三人の著書が、大学生の必読書であったというような時代が、確かにあったのだ。倉田との交わりから始めるような書き方が、よかったのかどうか、私には分からないが、押さえるべきところを押さえながら、落ち着いた形で本書は始まっていく。
 当たり前のように見なされているところに、疑いをもつ。本当にそれでよいのか。それが説明できる原理となるのか。問い直す姿勢は、哲学の基本であろうと思うが、西田はそれを終生大切にし、自ら思索することを続けたのだ、と著者は評する。その点で、カントが、「哲学する」ことを教育的に勧めたことと、重なる部分もあるだろうか。私たちは、与えられた学説を鵜呑みにするというのではなくて、自ら置かれたその場で、考えていこうとするのでなければならないのである。それは、誰がその悲しみを慰めても十分ではなく、自分の中で答えを見出して乗り越えていかなければならないことと、似ているかもしれない。その意味では、西洋哲学がどうしても主観と客観の図式から抜けられなかった有様に対して、それでは解決しないとして、風穴を開けるべく立ち向かった西田は、確かに哲学をしていたと言えるのだろう。
 西田の思索の深まりを、本書は順を追って辿っていく。まことに、それがなければ、様々な概念が入り乱れて、何を言おうとしているのか分からなくなってくるのだ。ひとつのキーワードの「経験」にしても、最初のほうで触れてあるが、抽象的な概念で人間が、とくに人生のようなものが、片付けられてたまるか、というような気概が感じられる。そこにある「現実」を無視するな。私はかつて個人的に、これを「現場」と名づけて考えていたことがある。現実の場面という意味である。西田は最初「現実」を重んじ、その後「場」の哲学を強調した。もしかすると、私の考えていたことは、西田と遠いところにあるのではないのかもしれない。
 西田はまた、芸術、そして生命について思索していく。多分に、自分の存在そのもの、人生すべてを問う限りにおいて、凡ゆる分野が無関係ではありえなかったのであろう。当時の西洋哲学者の声を大いに取り入れながら、またそれらと対峙しながら、いまここに置かれた自分という存在の上で、誠実に自らに問いかけ、声を絞り出そうとしているように見える。
 やがて「無」という、へたをすると禅問答に終わりそうな言葉を使い始める。そのとき「場」という捉え方とそれが並行している。この「無」が、「有と無」の対立の片側にあるようなものであるはずがない。それを問題にす自分について「自覚」を必要とし、私たちの認識や行為を成立させる「場」へと思索を深めていくうちに、哲学と宗教の核心に、西田の道は深まっていく。
 この西田哲学は、日本で最も独自の哲学として世界に打ち出せる思想だと、よく言われる。だがまた、西田哲学は、最も批判の矢を浴びた思想でもあるという。本書はそのスタンスを大切にして書かれている。弟子のような者たちの中からも、容赦なく批判が飛ぶ。だがそれは、西田本人が目指した、自ら思索するという哲学のためにはむしろすばらしいことなのだ、という解釈である。京都学派という名が1932年の戸坂潤の論文に由来することは、私の意識にこれまでなかったが、それとて、同じ思想基盤について呼ばれた名ではなくて、ひとつの「知のネットワーク」のようなものではないか、というように著者は捉えている。
 西田哲学の用語は、急に切り取って目の前出されても戸惑うこと限りないが、それが生まれる過程や、背景にある思いなどを本書のように紹介してくれると、ぐっと近寄りやすくなる。その意味で、よく説明されていると言えるだろうと思う。自分の生き方に真摯に向き合い、問いかけては問い直すということを繰り返したものが、言葉として流れ出たときに、その著作が生まれたのだとすれば、私の哲学観も、西田の著作を浴びたのではないままに、西田の敷いたスタイルを踏襲していると言えるのかもしれない。人生の悲哀を嫌というほど覚えた西田幾多郎ほどには、深まる感情も才能もない私だが、いくらかでも想像の域にその哲学が入るものであるというふうにだけは、感じることができるものである。




Takapan
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