『娘がいじめをしていました』
しろやぎ秋吾
KADOKAWA
\1200+
2023.3.
これはマンガである。最初から最後まで、マンガとして物語が展開する。四つの章に分かれているが、滞りなく流れていく。4コマが縦2列で並ぶというのが標準である。コマが乱れないのは読みやすい。
いや、話はそれどころではない。セミフィクションとして、実際の出来事を元に描くシリーズであるらしい。「立ち行かないわたしたち」というシリーズ名もあるようだ。どれもちょっと息苦しいような内容であるらしいが、今回は「いじめ」。いじめられた側がその事態を訴える。これはよくある。読む側も心が痛くなる。他方、いじめた側の心情というものは、あまり多くない。特にその家族、親となるとまた、傷つく。傷つけた故に、また傷つく。
冒頭から明るくはない。いじめ事件の報道に、親はどうしていたのかねぇ、などと会話を交わす、平凡な夫婦がいた。実はこれは、重要な伏線になっている。
馬場小春と赤木愛(まな)は、小さなときには仲良しだった。しかし小春が怪我までしたとき、これでは事が済まないということで、母親の馬場千春から赤木加奈子は連絡を受ける。母親の赤木加奈子は、かつて自身いじめられた経験がある。それで、小学五年の娘の愛が、同級生の馬場小春をいじめているらしいと知ったとき、いじめられている側の気持ちにもなる。ついに、しらばっくれる娘に対してだんだん苛々してきて、怒りすらぶつける。
馬場家に謝りに行く。ひた謝る。このように呼び出された理由のひとつは、学校側の態度であった点も押さえておかねばならない。つまり、馬場千春としては、学校に行ってもなにもしようとしないからこそ、直接行動に出たのである。そしてこのときには、表向きはさほど悪い顔は向けず、比較的穏やかに別れたのであった。
夏休みになり、その後は互いにぶつかることもなかったのだが、そこへSNSで愛のことが露骨に、いじめの加害者として拡散されていることに加奈子が気づく。
ところで二つの家庭が一応の区切りをつけたかのように見えた6月以来、小春は学校に行けていなかった。学校側も、休みが長くなるともはやなんの手立てもしようとはしないままだった。馬場夫妻も小春のためにいろいろ気を使い、努力する。それが実ってか、小春も9月からまた学校に行きたいと言う。――しかし、それは実現しなかった。
やがて、クラスの保護者の間で、SNSのことが知られ、保護者会で先生に迫るようになっていく。実はそのせいもあって、今度はクラスで愛がいじめられるようになっていた。それは深刻な姿であったが、学校の先生は気づいてすらいない模様。いじめられる側の愛と向き合い、加奈子もいろいろ気づかされることがある。小春が登校できないことで、わりと穏やかに事態を見ていた千春も、だんだんむしゃくしゃしてくる。
さて、この後どうなるのか。私はさすがに細かく明かしてはなるまい。二転三転あり、加奈子はそれでも、いじめる側の母親であることから逃れることはできないという覚悟をもつようになる方向に進む。
お気づきのように、学校が何もしないという背景がここにある。親同士が直接話をするという事態は、やはり避けるとよかっただろう。SNSは親の間に知られることとなり、クラスの保護者たちは、「いじめ」を如何にも客観的に見て、赤木愛の親を極悪人のように責める。もちろん赤木加奈子本人は言い返せない。しかし、それが適切であるかどうか、それはマンガの冒頭の伏線の回収があるので、そこをひとつのクラスマックスとして期待してお読みくだされば幸いである。
マンガを描いた著者が、「あとがき」で述べている。「漫画は親から見える範囲のものしか描かないようにしました」という。そう、これが本書の大きな特長である。いったいこの「いじめ」とは具体的に何であったのか、一切分からないのだ。クラスの様子も、まるで分からない。それは正に、親から見える範囲で、親がどう認識しているか、ということしか描かないが故である。いわば、真実は藪の中なのである。
何があったか、子どもが親に明かす場面が、ないわけではない。だが、子どもが事態を客観的に説明するというのは、事実上無理であろう。何か話したにしても、当事者サイドから見たままでしかないし、あるいはまた、それを事実のままに説明できたかどうか分からない。事実を親に言ったかどうかすら不明であるし、どれがどういじめであったのか、当人たちとて把握できていなかったに違いない。
クラスで何があったのか、誰も知らないし、誰も分からない。だが、親たちは親たちの論理や立場でぶつかってゆく。また、そもそも分からないままに踏み出して行かなければならない。そこにあるのは、とりあえずごまかしている娘や、学校に行けなくなった娘の姿だけである。ごまかしているとはいえ、愛も、叱られて何か自覚したらしく、いじめはいけないというポスターを夏休みに描いてもいる。愛の心の中が、神のような視点から説明されるようなこともない。何らかの反省はあった模様である。が、その後愛が攻撃の的になることで、愛もまた被害者面ができないままに、いっそう保護者会において愛の立場は加害者呼ばわり一色になってゆくという「ズレ」がある。
いったい、何が真実なのか、全く分からない。藪の中は不明なままである。それでいて、それぞれの親の葛藤や苦悩は確かにある。問題はいじめの事実そのものの解明ではないのだ。いま傷ついている子どもたちを、そこからどうすればよいのか、なのである。
これをこのまま「いじめ」の問題として、また親と子との関係の問題として、いろいろ考えさせる本としてお薦めするのが、適切であろう。だが、私の内には、むくむくと悪い癖が興ってくる。「悪い」というのは言い過ぎだが、なんでも聖書と結びつけるのは控えるべきではあるとの理解は一応ある。
それでも、これは聖書の読み方として教えられるものがある、とするなら、やはり一言付け加えておかねばなるまい。これは聖書をどう読むかということの、重要なヒントになっているように思われてならないのである。
しばしば、神学が展開してゆくゆかないに拘わらず、「歴史上のイエス」が気になることが多いらしい。それは近代人の悪癖のようにも思える。実際イエスは何をしたのか、イエスが本当に語った言葉であるのかないのか、学者たちは研究する。そしてその研究を材料に、礼拝説教の場でまで喋る。言うまでもなく、礼拝の場は研究発表の場ではない。しかし、聖書を歴史的に読むとはどういうことか、どう読めば歴史に適うのか、などを気にしながら、研究をし、また発表をする。
だが、それは解明できるのだろうか。否、解明しなければならないのだろうか。愛と小春のいじめの現場を、もしも何らかの理由で再現することができ、知ることができたとしたら、それであのいじめの事件は解決したのだろうか。そこで知った「事実」ですら、何らかの脚色によって「説明」した「物語」に過ぎないのではないだろうか。
イエスが「事実」何を言ったか、行ったか、それは客観に「説明」できるのだろうか。「知る」ことは可能なのだろうか。聖書の記録からああだこうだと言えば言うほど、その根拠たる記録そのものがどこまで「事実」であるのかないのか、いつでも「仮定」のままに論を展開していることに、なりはしないだろうか。
どうあがいても、あの「いじめ」の事実は分からないし、「事実」だと思いこんだものすら、ひとつの解釈でしかない。それをひたすら追究しようとしても、子どもたちと親たちとの心のケアという意味では、全く意味のないものとなるだろう。
聖書の出来事についても、それを解明することは、誰の何の得にもならないのではないか。それに対する努力を重ねるのも結構かもしれないが、聖書として歴史の中に遺された貴重な文化財を、私たちの幸せのために、信仰の根拠として、用いることのほうが、人類にとり得策であるに違いないと思うのだが、如何だろうか。聖書を信仰の書として受け止め、常に自らを省みるとよいのではないのか。自分の正義を主張することばかりにかまけず、この世界が、社会が、仮定が、人との関係が、平和になるように動くことを、その聖書から与えられた言葉によって願うほうがよくはないか。仲間だけで平和をつくったとほくそ笑みながら、問題のある人物や組織を叩くことを平気でするようであるなら、聖書を読んだことにはなるまい。
それは、このマンガの中でもちゃんと描かれていた、ちょっと怖いシーンが物語っていることである。本書の中でのその怖いシーンは、私にとっては、福音書でイエスが非難する、ファリサイ派の人々と重なるものだった。だから、聖書を自分は読んでいるつもりで、そうなってゆくのだという、自分では気づきにくい罠を思い知らされるような気がしたのである。
マンガは、誰が正しくて、どうすれば正解なのか、そのようなことを押しつけようとはしていない。聖書だって、正解は無数にある。私たちは聖書に活かされるならば、その都度、聖書から進むべき道や執るべき態度を示されるように、努めようではないか。聖書から、その都度、適切な命の言葉を与えられるように願い、それを語る説教のある礼拝で、生かされようではないか。