『みんなが手話で話した島』
ノーラ・エレン・グロース
佐野正信訳
ハヤカワ・ノンフィクション文庫
\1080+
2022.10.
ろう関係の情報に敏感になっていると、本書の話をどこぞで聞くことになる。読みたいと思った。だが、古書で一万円以上の値がついていた。稀少なのだろう。さすがに手が出せないでいたら、このたび文庫になるという。それで思わず飛びついたという具合である。
アメリカのマーサズ・ヴィンヤード島。マサチューセッツ州の島が舞台である。ニューヨークからも比較的近い場所にある島で、いまは観光地あるいはリゾート地として有名である。
実はここが、聴覚障害者が非常に多かったとして有名な島なのである。あるときには、20%ほどもろう者がいたという。本書は、文化医療人類学者たる著者が、その歴史と背景を、現地での取材も含めてまとめあげたレポートである。
その詳しい内容については、ぜひお読みください、としか言いようがない。
注目したい点を少しだけ挙げる。この島では、ろう者は特別な存在ではなかったのだという。よそから来る人が普通につきあって、ただあの人は話をしてくれませんでしたね、などと呟くと、他の人が、ああそうか、ろう者なんですよ、と改めて気づくような具合であった。島民たちも、たとえば腕のいい漁師ですよ、と人を紹介しても、その人がろう者だということはわざわざ挙げない程度に、ろうであることが、ごくごく自然なこととして受け容れられていたのだという。ということは、島民も、自然と手話を使ってコミュニケーションしていたということになる。それもわざわざという感じではなく、生活していくために必要不可欠な当たり前のこととして使い、聴者もまた、知らず識らずのうちに手話で話し合うようなこともあるくらい、自然なことだったのであるという。
著者の調査によると、17世紀の終わり頃から、ろう者がこの島にいたことが分かっており、最後のろう者が亡くなったのが1952年であったという。しばらく閉鎖的な社会であった時代には、島民が皆互いに親戚同士であるような関係すらあり、独立した子もそう離れた場所で暮らすのではないために、ろう者に関して遺伝の要素があるとすれば、ろう者が生まれる可能性が高くなることがありえたのではないか、と推測する。しかしその点を科学的に断定することはできないから、あくまでも現象のひとつの説明となるのであろう。その後、アメリカ本土からの移住者が増えると、その要素が薄まることになるために、ろう者の出現が次第に少なくなっていったようである。
著者のメッセージを代弁するとは言わないでおく。私が伝え間違うと失礼だからだ。だが、著者と共に、私も思うことがある。この島でのしばらくの時期に、ろう者は聴者と何の差別も区別もなく生活を共にしていた。障害者や何らかのハンディキャップをもつ人は、たぶん世界中のどこでも、一段低いところで、世話を受ける立場とされたり、極めてマイナーな特別存在扱いをされたりするのではないだろうか。そうでない多数派のほうも、少数派で特別な立場だという目でしか見ていないのではないだろうか。多数派に便利な社会をつくっていったわけだから、少数派にとっては不便だという実情があるということにも、多数派は気づこうともしないでいる背景があるのかもしれない。
だが、障害者が何らその障害を意識させることなく、あたりまえにただの人間として交流する社会が、この世界に確かにあった。これは大きな事実ではないか。障害者が何の差別もされず暮らす社会など理想に過ぎない、というような、分かったような口を塞ぐ事実ではないだろうか。
ところで、私は自分の考えでいま「ろう者」と「聴者」という言葉を使った。だが、本書ではそうは表記されていない。「聾者」と「健聴者」で通してある。「健聴者」はどうかな、という気はしていたが、「訳者あとがき」を読むと、この点で驚かざるをえなかった。訳者は、かなりのこだわりをもって、この訳語を決めていた。もちろん、こうした訳語の取り扱いは難しい。ろう者と失聴者などの区別も、それぞれの団体により使い分けられているようではあるが、確固たる定義が決まっているわけではないようだ。「しょうがいしゃ」の表記についても様々あり、それぞれの意味合いや配慮があるにしても、これも論争しても仕方がないくらい、定番になるものがなく、表記問題は放置されているようなものである。
訳者は、その訳語を使う理由を、かなり詳しく述べている。というよりも、どうしても「聴者」という語を使いたくない、というのが一番の理由のようである。「聴者」は非論理的で人工的な言葉であり、違和感しかもてないから使わない、というのである。「日本語としておかしい」のだそうである。対して「健聴者」はやはり人工的につくられたのだが、「ありのままの客観的な事実を反映したもの」であるのだという。さらに英語を持ち出して、元の「hearing」の「hear」は「聞こえる」など、説明はかなり長く続く。
正直、その議論が私にはよく分からなかった。「健聴者」がいいという訳者ではあるが、原語の意味を蕩々と述べる割には、「健」の文字がどこから入るのか、についての説明は全くない。また、「健聴者」という語が現在避けられているのは、「健」の立場に対置されたろう者に「健」でないというイメージを与えることになる懸念があるからであろうが、その点には触れず、「聞こえることを誇示するような」可能性があるかもしれないが、という但し書きだけが唯一「健」の語についてのコメントのようであった。いや、誇示とはまた違うだろう。するとまた「健聴者」は論理的なのだろうか。そうだという根拠が、私にはどうしても伝わってこない。
訳者は聴覚障害者について、何か知らない点があるのだろうか、と一瞬勘ぐったが、それは違った。訳者は8歳で失聴している。正に当事者であるのだ。むしろ私のほうが、蚊帳の外から、外野の声を放っているに過ぎない。でも、それならばどうしてここまで執拗に、どうしても「聴者」はけしからん、と書くのだろうか。私はそこに、この訳者自身の、何か思い入れがあるに違いないとみた。とにかく執拗なのである。これまでの翻訳人生の中で、この語の問題で、よくない体験があったのではないか。そのようにしか思えないのである。
私は、この本では、「健聴者」という訳語は使ってほしくなかった。この本は、ろう者と聴者が、区別なく生活を共にできた、一時的であったにしても、一種の理想的な社会を示すものである。その理想的な情況の説明のために、聞こえる者を「健」だ、と選び出すようなことをすべきではない、と考えるからである。
ろうの方から、私のような者が分かったような口を利くことは、面白くないはずである。たとえば「それはキコエル君の思いつく程度のことだよね」といった具合であり、このような反応を受けたことが実際にある。私もこの訳者からすれば、ただの「キコエル君」である。私には気がつかず、思いも及ばない、何かがそこにあるのだろうと推測する。それが何であるのか、悲しいかな、それがまた気づかないということに、私はしばらくまた思い悩まなければならないものであろう。