本

『国境の南、太陽の西』

ホンとの本

『国境の南、太陽の西』
村上春樹
講談社文庫
\500+
1995.10.

 もとは1992年に単行本として発行されている。それを三十年後に読むという離れ業である。気づいていなかった。この作品は、するりと身をかわしていた。やっとのことで捕まえた。
 ジャズやファッションを縦横に忍ばせた、村上春樹らしい装いの中、私が注目したのは、その異世界感覚のなさだった。  一人っ子という鍵が二人を出会わせる。その頃、一人っ子が珍しかった中で、それを背負った僕と、転向してきた島本さんが、小学生のときに心通わせる。どちらにしてもそうだが、特に島本さんは、ほかの誰とも心を交わるようなことがなかったのだという。
 二人は別々の中学校へ進むことになった。しばらく家に行くような間柄ではあったが、いつしか音信が途絶える。そして、会うこともなく、僕は別の女の子とそれなりの経験をしていく。ただ、島本さんとの心の交流は、ずっと心の中に保たれていた。
 こうなると、だいぶ後に、再会するという筋書きが想定されて然るべきであろう。その詳細について私はここで明かすつもりはない。
 私にも、「心のふるさと」とも呼ぶような恋心があった。だがそれは小学校五年生のときからで、この物語と世代としては一致する。ただ私の場合は、中学でいちばん直接話をしたものの、私が背を向けた。と、離ればなれになった高校のときに、接触が始まる。そして告白したが、幼なじみだという程度の目でしか見られていなかった。私が仕掛けて、幼なじみにしてしまったということも、彼女には異性としての眼差しを得るようなものとはならなかったのである。私が京都に行っても文通はあったが、彼女の家庭の事情もあり、音信不通になってしまった。その後は、どうしているか全く分からない。
 もちろん同じものではないにしろ、小説の僕の前半には、かなり重なる部分があると言えるのだ。だから私は、細かな描写を普通なら流して通り過ぎるような物語の中で、一つひとつが生き生きと心を撫で回していくのを感じて、怖いくらいだった。斜め読みをしているようなつもりでいても、すべての言葉がズキズキと心に差し込まれてくるのである。
 もしもその後彼女と出会ったとしても、この物語のようにはなりはしないはずだ。だが、ここに一つのモデルがあるのだ、ということは感じさせる。その意味でも、私にはドキドキの展開であった。
 何がどう解決するわけでもないし、残された謎も解けたようには思えない。結局あれはどうだったのだ、という点を挙げればきりがない。すべては「僕」の側の推測に過ぎないし、途中から考えることを止めている場合もある。そうした謎解きのようなものを、村上春樹に求めてはならない。本人すら、どのように物語が動いていくか、知らないままに綴っていることがあるのだという。ただ、それでも、推敲については実に厚く時間をかけて行って居るはずだから、不用意な矛盾や表現のエラーなどはない。そこは流石だ。
 私のように、何かしら重なるものをもっているのでない方には、この物語がどのように響くかは分からない。若干不思議な出来事は起こるが、不思議さが度を超えることはなく、十分に現実的である。あまり作品として持ち上げられることがないようにも見受けられるが、いい話であった。ただ、そこに「死」という大きなテーマをこめていることには、気づきたいと思う。私たちの誰もの心の中に、もやもやと潜むに違いない「死」を、さらにもやもやとした形で鎌首をもたげるかのようにして目の前に突きつけるものが、本当の村上春樹の魅力ではないかと思うし、それは本作にも十分に窺えた。それだけは伝えておいてよいのではないかと思う。




Takapan
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