本

『いのちとリスクの哲学』

ホンとの本

『いのちとリスクの哲学』
一ノ瀬正樹
ミュー
\1700+
2021.3.

 サブタイトルとして、タイトルの下に「病災害の世界をしなやかに生き抜くために」と並べてある。やや文学的な表現だが、読み終わると、言おうとしていることへの思いが伝わってくるような気がする。
 主張していることは、最初から少し読み進むとはっきり分かってくる。本書はひとつの流れの本というよりは、各所で論じた論文を並べたものと見た方がよいので、全体に流れる一つのことが、それぞれで繰り返されている、と言えるであろうからだ。
 その内容についてご紹介する前に、本書は巻末にきちんと索引を付していることを先ず挙げる。この小さなことが、なかなか一般にはなされないのである。新書という限られた頁数の中でなら同情もするが、それでも索引はあった方がよい。本書はB6版で360頁余りを数えるから、当然索引はあるはずだ、と見る人もいるだろうが、普通はなかなかそうはゆかない。
 それから、註の豊富さである。頁数は28ほどではあるが、上下二段に小さなポイントで並べられている註は、単なる引用よりも、改めて深く論じている場面が多いように見える。申し訳ないが、本論に熱中して、巻末の註に飛ぶ必要に気づかなかったことが多々あり、いつの間にか多数の註の議論を知らずにいることがあった。そのため、軽く目を通すか、中には全く読んでいない註も発生するのだった。
 さて、内容についてである。私は当然ノーマルに、本の最初から順に読んでいった。だが、ひとつお薦めしてよいかと思うのは、終わりに17頁にわたり書き下ろされている「あとがき」から読む方法である。恐らく、本書で言いたいことが、ここに簡潔にまとめられている。著者の主張については、ここで十分に分かる。ただ、「分かる」と言えるためには、本論を見渡してきたからこそであるかもしれない、とも思うので、「あとがき」だけでタイパ気取りでいる人をよしとは考えない。
 幾つもの論文が集められているので、幾つもの論点があるのだが、大きく貫かれている点については、それが福島の原子力発電所事故にまつわる提言であると見てよいであろう。つまり、放射線の危機が大きく取り上げられたが、科学的な調査では、その危険性は生命を脅かすものではないことが分かったにも拘わらず、世間は避難第一とし、重病患者や体力のない人も強制的に動かすことを正義とした。結局、災害関連死ということで、福島の死者が極めて多くなったのは、地震による直接的なものというよりも、実はこの避難と避難先での生活に関してが大きな理由となっていた、という事実を指摘するのである。
 このような発言を、地震直後から社会に提言していた著者は、激しいバッシングに遭い、誹謗中傷を浴びたという。世間とマスコミが目の色を変えて、放射能は危険だの大合唱に明け暮れている中で、このような発言をすると、どういうことになるか。それを体現してしまったのである。
 この辺りの主張を「あとがき」からお借りすると、「事実をよく知らずに、よく調べもせずに、軽々しく思い込み、その思い込みに従った行動をしてしまっている」点を先ず指摘する。これについては、福島原発事故と新型コロナウイルス感染症とに共通する問題点であるという。「根拠なしの思い込みに基づいて行動してしまう」ということを痛恨の失敗であると捕らえている。そして、「「知ろうとすること」、可能な限り正確な根拠や証拠に基づいて「知ること」、それはとりわけ病災害のような緊急時には絶対不可欠であり、倫理にも適い、そして私たちの「いのち」を守ることにもつながる」ということを肝に銘じてほしいという願いを訴えていたのである。
 著者の語り口は、かなりねばねばしている。「まえがき」も書き下ろしであるが、ここには「いのち」について、宇宙規模で見つめる眼差しを提示する。何十億年か分からないが、太陽は地球を呑み込むほどに膨張するであろうと科学は見通している。それを思うときに「いのち」とは何か、何が大切なのか、と問うのである。もちろん、だから「生まれてこない方がよかった」と結論づけるようなことが望ましいわけでもない。だが、そもそも凡ゆる危機感やそうした展望も、人間がなんとしても生き延びなければならない、という大前提から考えられている。その点、なにも人間こそが生き延びなくても、人間が滅んでも、他の生物が生き残る地球であってもよいのではないか、という問いは、思いつかないのである。このことは、ちょうど本書を読み終わった後で読み始めた、『福音と世界』2026年7月号に掲載されていた論文が指摘していたので、申し添えておくことにする。
 著者は、愛する犬や猫を喪い、そういう「いのち」への愛を覚えているのかもしれない。本書には、動物倫理について論じたものも載せられている。動物愛護とは何か。虐待はいけないのか。では食肉はどうなのか。苦痛を与えずに殺すということでよいのか。考えてみれば、動物に対する私たち人間の態度というものは、極めて曖昧である。しかしまあいいかと問わないでいる私たちの常態に、哲学はメスを入れる。入れなければならない。それが哲学の仕事である。それは、哲学者が正しいとか偉いとかいう意味ではない。目を背けていて、いつか重大な破滅を招くかもしれないことについて、警告を与える役割を担うのである。それが、災害に対するこの研究にも現れている。
 やはり、その冷徹な言い方について、反論したくなる人が現れることについては、理解できないわけではない。反論することで、読者は自分が温かな心を持っていることを認めさせることができると思うかもしれないが、だが論理というものは感情で動くのではなく、事実を重んじるべきものである。周到に論ずるために、ねちねちとした口調に見えるかもしれないが、読者はやはりよく聴くべきであろう。
 その上で、亡くなった方や被害に遭った方についての心配りも随所に見られることも付け加えておく。誤解を招かないために、最大級の配慮をしているのである。しかも、それがただの形式的なものであるようには聞こえないところがあると感じる。それは、私もまたその宇宙規模での思いがあるからであり、それこそが私の、最初の哲学体験であったとも言える。動物に対する考えも、私の原初的な哲学体験に重なる。
 とはいえ、あの地震と原発事故の直後について、避難指示というものについて、私は著者のようには批判の眼差しを向けたり発言したりすることはできなかった。私もまた、感情的に緩いところがあるのだ。だから、本書を読み始めたときには、著者の主張になかなか全面的には同意できないと感じていた。しかし、著者は被害の実態について、たんに思い込みや印象で論ずるようなことをせず、細かなデータをきちんと提示しながら主張を続けていたし、現実に福島の現地に足を運んで調査するようなこともしている。その姿勢には、敬服すべきであると考える。
 というのは、中には福島に一歩も近づかず、当地の人々の気持ちを想像することすらなしに、放射能の危険性はないと連呼する外野がいることも、私は知っているからである。著者が現地の方々、また亡くなった方に、できる限りの思いやりと誠意を示していることは、よく伝わってくる。こうした人間的な「こころ」のある仕事をする姿勢を、学んだようにも思われた。
 震災当時、どこまで関連死を防ぐことができたかはやはり分からないが、せめて反省することによって、次の災害に対するリスクを減らし、「いのち」を尊重することができるように方向付けることが、哲学のひとつの有意義な使命であると言えるであろう。また、不幸な方々への気持ちを脇へ置かないことも、そのときに求められるものであるだろう。
 なお、高校の新しい教科としての「公共」についての論文も補遺として収められている。これは義務論と功利主義についての、極めて簡潔で優れた見解と言えるので、本編とは別扱いでもよいから、どなたにも目を通して戴きたいと思っている。




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